前回の復習 1980年代前半のスペイン
スペインとポルトガルは、70年代まで独裁政権が続いていた。70年代に民主化が成立。80年代左派政権が成立。ECに加盟し、外資が流入。好景気になっていく。
今回は、スペイン・ポルトガルの戦後史で重要な転換点になる民主化の過程を見ていきます。
1970年代の国際情勢
1970年代、日本は高度成長期が終わり、低成長期に入っていく。
世界では、オイルショックをきっかけに低成長期に入っていく。
スペインの民主化
民主化
カルロス1世は、国王に即位すると、民主化政策を進めた。77年に総選挙を実施。78年に新憲法を制定した。
カルロス1世の民主化政策の背景には、75年のポルトガルのカーネーション革命がある。
王政復古
フランコ将軍は、69年、王政復古を決定した。イタリアに亡命中のスペイン=ブルボン家からファン・カルロス氏(カルロス1世)を指名した。前国王アルフォンソ13世の孫に当たる人物である。
75年にフランコ将軍が亡くなると、カルロス1世が即位。スペイン=ブルボン家が復活した。
スペイン=ブルボン家は、フランス=ブルボン家の分家である。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際に、ルイ14世の孫がスペイン国王になったことが始まりである。
フランコ将軍は、もともと国王派の軍人である。第2次世界大戦がおわれば、ブルボン家を復活させるはずであった。しかし、前国王の息子が共産主義者に寛容な人物であったため、独裁政権を継続することになった。
フランコ将軍
フランコ将軍は、1930年代のスペイン内戦で政権を握る。これを支援したのがドイツのヒトラーである。第二次世界大戦後に、終身統領になり、独裁体制を構築する。
ポルトガルの民主化
カーネーション革命
74年4月、スピノラ将軍ら軍部がラジオ局などを占拠。これにより、カエーターノ首相らが退陣。無血革命で民主化が成立した。スピノラ将軍が臨時大統領になった。
翌5月のメーデーで、銃口にカーネーションをさしたことから、後にカーネーション革命と呼ばれた。
革命後のポルトガル
カーネーション革命が成立すると、政治亡命中の社会党と共産党の幹部が急遽帰国した。
その後、各地でストライキが続発。軍部の改革派(国軍運動)と左派が連携。スピノラ臨時大統領は左派を排除しようとして失敗。9月、スピノら臨時大統領が退陣した。
新政権は、産業国有化や農地改革を実施。経済格差の是正に努めた。しかし、社会党と共産党との権力闘争で政治は安定しなかった。
75年の総選挙で社会党が勝利。以後、穏健左派の社会党と右派を中心とした社会民主党(社民党)の2大政党制になった。
きっかけは、60年アフリカの年
では、なぜカーネーション革命が発生したのであろうか。それは、60年のアフリカの年がある。50年代の第2次中東戦争を受けて、フランスのド=ゴール大統領が多くのアフリカの植民地の独立を認めた。
これにより、ポルトガルやベルギーのアフリカ植民地で独立運動が大きくなった。ポルトガルは、独立運動鎮圧のために軍事費が増大した。サラザール独裁体制への批判が高まった。
68年、サラザール大統領が事故により引退。穏健派のカエターノ政権が成立した。カエターノ政権は、植民地戦争を継続した。
軍部の改革派が「国軍運動」を結成。軍の中枢のスピノラ将軍がこれを支持し、カーネーション革命が始まった。
独裁時代のポルトガル
ポルトガルは、第二次世界大戦後、サラザール長期独裁政権が続いていた。
サラザール氏は、有能政治家で、1930年代の世界恐慌をうまく乗り越えた大蔵大臣である。
ポルトガル植民地のその後
アフリカ
ポルトガルは、アフリカに3つの植民地を持っていた。西アフリカのギニアビサウ、アフリカ南西部のアンゴラ、そしてアフリカ南東部のモザンビークである。
これらの国は、60年のアフリカの年で独立機運が高まった。サラザール政権は、これらの国に軍隊を送った。その士気を取ったのがスピノラ将軍である。
74年にカーネーション革命が成立すると、これらの国は独立を果たした。
ギニアビサウは、ギニア湾岸の国である。周辺諸国は、60年のアフリカの年に独立。ギニアビサウの独立運動は活性化した。このときに送り込まれたのが後に臨時大統領になるスピノラ将軍であった。
アンゴラでも、60年のアフリカの年をきっかけに独立運動が活性化した。その中心は、社会主義勢力出会った。カーネーション革命が成立すると、アンゴラも独立。黒人国家が形成された。その中心は、社会主義者たちでした。これを警戒したのが白人国家の南アフリカである。南アフリカは、反政府軍をを支援した。これにより、アンゴラ内戦が勃発する。政府側には、ソ連やキューバなどの社会主義国が参加。反政府軍には、南アフリカの他に中国も支援に入った。この内線は、91年まで続いた。
モザンビークでは、カーネーション革命で黒人国家が形成された。これに危機感を抱えたのが白人国家の南アフリカである。南アフリカは、モザンビークにも軍隊を派遣。モザンビークも内戦状態になった。
東ティモール
東ティモールは、東南アジアで唯一残ったポルトガルの植民理である。ポルトガル植民地であるため、東南アジア諸島部ではまずらしくカトリックを信仰している。
東ティモールは、カーネーション革命が成立すると、3つの派閥に分裂した。1つ目は、ポルトガル残留派である。2つ目は、インドネシア併合派である。3つ目は、独立して社会主義国家の建設を目論む派である。
75年、インドネシアのスハルト大統領は、武力で東ティモールを併合した。
マカオ
マカオでは、中華人民共和国への返還の声が高まっていた。60年代には、中華系移民による暴動が発生している。
カーネション革命で返還交渉が始まった。