1980年代後半のスペイン スペインポルトガルがECに加盟

前回の復習 1990年代のスペイン

 90年代のスペインは、バルセロナオリンピックに象徴されるように好景気を実現していた。

 今回はその背景にあるスペインとポルトガルのEC加盟についてみていきます。

1980年代後半の国際情勢

 80年代後半は、激動の時代である。

 日本は、バブルの絶頂期である。昭和が終わり平成になる。消費税が導入されたのもこの時代である。

 世界では、ドイツでベルリンの壁が崩壊。中国で天安門事件が起きたのもこの時代である。

スペインポルトガルのEC加盟

南欧諸国のEC加盟

 80年代、ECは南へ拡大した。81年ギリシャがECに加盟。そして86年、スペインとポルトガルがECに加盟した。これにより、ECは12カ国体制になった。

ECとは

 EC(ヨーロッパ共同体)は、現在のEU(ヨーロッパ連合)の前身組織である。

 ECは、60年代のド=ゴール大統領の時代に発足した。アメリカイギリスとに対抗できる第三極を作る目的があった。

 60年代末に、ド=ゴールが退陣。70年代、オイル=ショックで低成長期に入る。ライバルであったイギリスを含めた3カ国が加盟した。

なぜ、スペイン・ポルトガルの加盟が遅れたのか?

 スペイン・ポルトガルはヨーロッパの主要国の1つである。なぜ、この2カ国のEC加盟が遅かったのであろうか。

 その理由は、両国の政治体制にあった。スペインは、70年代まで、フランコ将軍の独裁政権が続いていた。フランゴ将軍は、ヒトラーの支援でスペイン内戦に勝利した背景があり、ヨーロッパ諸国から距離を置かれていた。

 また、ポルトガルも70年代まで独裁が続いていた。

ポルトガル、マカオ返還に合意

概要

 87年、ポルトガルは中国(中華人民共和国)にマカオを返還することに合意した。

マカオとは

カジノの街 マカオ

 マカオは、香港の隣ある地区で、香港と同じ特別行政区として資本主義を維持している。

 主要産業は、観光で巨大カジノを持つホテルが多数建設されている。モータースポーツも盛んである。一方、旧市街地では香港のようなチャイナタウンが一方で、キリスト教の寺院が多数存在。世界遺産に登録されている。

 マカオにも国際空港は存在するが、香港経由で入国するのが一般的である。

マカオとポルトガル

 ポルトガルとマカオの関係は、16世紀の大航海時代までさかのぼる。明王朝は、献金の見返りにポルトガル商人のマカオ居留を容認した。この献金は清王朝時代まで継続した。

 転換点は、1840年代のアヘン戦争である。マカオの隣にある香港がイギリスに割譲された。ポルトガル商人もこのときに清王朝への献金を停止した。事実上、マカオはポルトガルの植民地になった。1887年に、清王朝とポルトガルが条約を締結。清王朝は正式にマカオの割譲を承認した。

 1974年、ポルトガルはカーネーション革命で民主化。ポルトガル新政府は、海外領土の全放棄を宣言した。77年、ポルトガル軍はマカオから完全撤退。79年に、ポルトガルが中華人民共和国を正式承認。しかし、このときには、中華人民共和国にマカオ・香港を統治する経済力がなく、返還まで至らなかった。このため、マカオは「アジア最後のヨーロッパ植民地」であり、「ポルトガルの最後の植民地」になった。

イギリスの香港返還に合意

 マカオ返還の背景には、香港返還がある。87年、イギリスは中国(中華人民共和国)に香港の返還に合意。97年に返還された。

 では、イギリスはマカオ返還に合意したのであろうか。時の政権は鉄の女サッチャー首相の時代である。サッチャー首相は82年のフォークランド紛争に勝利。香港返還も強気に交渉した。

 中華人民共和国も、徹底抗戦で向かった。水道などのライフラインの停止を示唆した。これにより、イギリスは香港返還に応じざるを得なくなった。この出来事は、マカオ返還交渉にも大きな影響を与えた。

中華人民共和国とは

 中華人民共和国は49年に建国が宣言された。しかし、アメリカなどの西側諸国の多くは、台湾の中華民国政府を正式な国家として取り扱った。

 転換点は、72年のニクソン=ショックである。この事件をきっかけに西側諸国は次々と中華人民共和国と国交を樹立した。

 76年、文化大革命で中国は政治的にも経済的にも混乱した。これを回復させたのが、77年に政治の中枢に復帰した鄧小平氏である。鄧小平氏は、近代化政策をすすめ、経済大国の日本から資金を確保。経済大国への道の礎を築いた。

 しかし、89年の天安門事件をきっかけに中華人民共和国は国際的に孤立するようになる。

99年前の中国

 最後に、90年代に香港・マカオが返還される理由について解説します。

 香港返還の交渉の前提は、香港の一部を90年代後半に返還する取り決めがある。それが租借地である。

 租借とは、借金の見返りなどで、領土の一部を他国に一定期間割譲することである。

 租借地ができたのは、1890年代後半の中国分割の時代である。その設定期間は、99年であった。その期限が、1990年代後半であった。この時代は、清王朝の末期である。日清戦争に敗北した清王朝は、軍事費と賠償金で債務が膨れ上がっていた。

スペインポルトガルの政治と経済

EC加盟で外資が流入

 スペインは、ECに加盟したことで海外から資金が流入していった。特に資金が流入したのがフランスに近いバルセロナだある。

 経済成長を果たしたバルセロナは、92年にバルセロナオリンピックを開催。そして、2010年代にユーロ危機がはっせいするとスペインからの独立運動を展開した。

スペインの政治

 スペインは、国民党と社会労働党(以下、社会党)の2大政党が政治を動かしている。82年に、ゴンサーレス社会党政権が成立。

 低所得者層に優しい政治を行っていた。しかし、80年代はレーガノミクスの自由主義経済の時代である。ゴンサーレス首相も自由主義政策を展開した。また、外交面では、NATOやECに加盟。

 好景気を背景に、コンサーレス社会党政権は、90年代まで続く長期政権になった。

ポルトガルの政治

 ポルトガルは、75年のカーネーション革命で民主化が始まった。政党は右派(日本で言う自民党)の社会民主党(社民党)と左派(日本で言う立憲民主党)の社会党による二大政党制である。

 85年の総選挙で政権交代。シルヴァ社民党政権が成立する。好景気を背景に、長期政権を築く。