前回の復習 11世紀のフランス
11世紀のフランスは、カペー朝の時代である。封建制度が確立した。11世紀末には、十字軍遠征が始まる。
フランス革命以前のフランスは4つの王朝が成立した。今回扱う10世紀は、カロリング朝が断絶し、カペー朝が成立する時代である。
カロリング朝 → カペー朝 → ヴァロワ朝 → ブルボン朝
10世紀の国際情勢
10世紀は、平安時代中期。藤原摂関政治が確立した。11世紀末に、藤原道長の全盛期に入る。『枕草子』や『源氏物語』の執筆が始まったのもこの時代である。
中国では、唐王朝が滅亡。五代十国の戦乱期に入る。10世紀後半に宋王朝が成立。皇帝専制政治が始まる。
イスラム圏では、アッバース朝が衰退。イランのブワイフ朝やエジプトのファーティマ朝などのシーア派政権が登場した。
流れ
前史)西フランク王国
9世紀のフランスは、西フランク王国と呼ばれ、カロリング朝の時代であった。
ゲルマン人の侵入によって、西ローマ帝国は、滅亡。ヨーロッパ各地にゲルマン人の国家が成立した。その大部分を統一したのが、フランク王国である。
8世紀にカロリング朝が成立。8世紀末のカールの戴冠で絶頂期を迎える。9世紀に入ると、分割相続によって分裂。これにより、ドイツの前身である東フランク王国とフランスの前身である西フランク王国に分裂した。
クリュニー修道院設立
10年、フランス中東部のブルゴーニュにクリュニー修道院が建設された。
建設したのは、フランス南東部のアキテーヌ公ギヨームである。
10世紀後半には、神聖ローマ皇帝やローマ教皇と肩を並べる存在になった。上位聖職者として改革をリードしていくようになる。これが、11世紀から始まる叙任権闘争につながっていく。
ノルマンディ公国成立
ノルマン人は、9世紀頃からヨーロッパ北部に現れ、村々を襲った。このノルマン人の侵入を第2次民族大移動という。
西フランク王国(カロリング朝)もノルマン人の侵入に苦しんでいた。ノルマン人はセーヌ川を使って内陸部のパリ周辺まで侵攻した。
そこで、西フランク王国は、ノルマン人の一派を味方につけて他のノルマン人を撃退した。味方になったノルマン人がロロである。
11年、西フランク国王は、キリスト教(アタナシウス派)への改宗を条件に、貴族(伯)にさせ、セーヌ川下流域の領土をあたえた。この地がノルマンディである。
ノルマンディ家は、11世紀にイングランドを征服。イングランド王(ノルマン朝)になる。
第二次世界大戦では、英仏軍によるノルマンディ上陸作戦が展開される。
オットー戴冠
ここで、話を東フランク王国(ドイツ)に移す。
19年、東フランク王国では、カロリング朝が断絶。ザクセン朝に変わる。
36年、オットーが東フランク国王に即位。アジア系騎馬民族のマジャール人(のちのハンガリー人)を撃退する。
これを受けて、73年、国王オットーは、ローマ教皇から戴冠を受ける。西フランク王国(フランス)ではカロリング朝が続いているにもかかわらず、皇帝オットー1世が誕生した。
ここから、東フランク王国(ドイツ)は、神聖ローマ帝国と及ばれるようになる。
カペー朝の成立
話を西フランク王国(フランス)に戻す。
87年、西フランク王国でもカロリング朝が断絶。有力諸侯が話し合い、パリ伯のユーグ=カペーを国王にした。ユーグ=カペーはセーヌ川を使って侵入したノルマン人を撃退することで名を上げた。
ここから、カペー朝が始まるとともに、西フランク王国からフランスに変わってくいく。
政治)フランク王国と貴族
国王と諸侯の関係
フランク王国などの10世紀のヨーロッパは、封建制度が各地率していた。これは、国王と領主の関係を示す封建的主従関係と領主と農民の関係を示す荘園制で構成される。
11世紀編では、荘園制をクローズアップしたが、10世紀編では、封建的主従関係をクローズアップする。
封建的主従関係は、家臣は、主君に対し軍役で奉仕し、主君は、家臣に封土与え、それを保証した。主君と家臣も多くの階層があった。国王の下には、有力家臣(諸侯)がいて、有力諸侯も、自分の封土の一部も、家臣である騎士に与えていた。
主君と家臣の関係は、日本の武士と違いドライの関係である。家臣は、主君が弱く、封土を保護できないと判断すると、封土を主君に返還し、裏切る。
また、日本では、1人の主君に仕えるのであるが、ヨーロッパでは、複数の主君に仕え各国の封土を持つこともアッた。
恩貸地制度と従士制
ヨーロッパの封建的主従関係は、ローマ社会の恩貸地制度とゲルマン民族の従士制が根拠になっている。
恩貸地制度とは、土地の所有者が有力者に土地を寄進して、その土地を保護してもらい、その見返りに地代(土地の利用料)を支払う制度である。日本の寄進地系荘園と同じシステムである。
一方、従士制とは、貴族の子弟が有力者の従者になり、有力者から食料や馬などを受け取るシステムである。
騎士と諸侯
諸侯とは、国王に次ぐ大規模な領地をもつ封建領主である。国王と同じように、多くの騎士を従え、自分の領地の一部を封土として騎士に分け与えている。大貴族とも呼ばれる。
騎士とは、もともとは、馬に乗る戦闘員という意味である。封建制度では、領主階級の最下層の身分である。国王や諸侯に従い、封土を与えられた。
公・辺境伯・伯
公とは、ローマ時代から存在する貴族の爵位。複数の都市を支配する諸侯である。小さな国の場合、王国ではなく、公国と名乗った。
辺境伯は、フランク王国が新設した貴族の爵位である。伯の中でも国境付近を担当し、伯よりも広い領土を持ち、異民族や他の国から自国を防衛した。
伯は、ローマ時代から存在する爵位。もともとは属州の政務官の意味である。フランク王国では、 都市レベルの諸侯である。