前回の復習 1840年代のフランス
1840年代のフランス。七月王政の時代。富裕層向けの政治が行われた。これによって、フランスの産業革命がはじまる。しかし、45年にジャガイモ飢饉が発生。これをきっかけにフランス二月革命(48年革命)が勃発。七月王政が崩壊し、第二共和政を経て、第二帝政へ移行する。
今回は、七月王政の仕組みと七月王政が成立するきっかけになった七月革命を見ていきます。
1830年代の国際情勢
日本は、江戸時代後期。天明の大飢饉で大御所政治が終わる。大塩の乱が起きたのがこの時代である。
中国は、清王朝の時代。アジア三角貿易で、アヘンが問題になっていた。
革命の半世紀
19世紀後半のヨーロッパは、革命の世紀である。18世紀末にフランス革命が起きたあとも、フランスでは革命が続いた。その革命は、ヨーロッパに波及した。フランス革命から第二帝政までの流れは、次のとおりである。
- 1789年 フランス革命が勃発。
- 1799年 ナポレオンが実権を握り、フランス革命が終結
- 1804年 ナポレオン戴冠式。第一帝政へ
- 1815年 ウィーン体制で、復興王政へ
- 1820年 スペイン立憲革命
- 1830年 フランス七月革命、七月王政へ
- 1848年 フランス二月革命、第二共和政へ
- 1852年 フランス、第二帝政へ
七月革命
シャルル10世の反動王政
15年、ウィーン議定書でブルボン王朝が復活。24年、シャルル10世が即位すると、反動政治が始まった。これに、国民は不満を持っていた。
七月革命
シャルル10世は、不満を取り除くために、30年6月、アルジェリア出兵を実施した。
同月、代議員(下院)の総選挙を実施。自由主義派が圧勝した。国王シャルル10世は、議会を解散。
ラ=ファイエットらパリの富裕層(自由主義派)とパリ民衆は、武装蜂起。当時、軍隊の主力はアルジェリアにいて、鎮圧軍を用意する余裕はなかった。国王シャルル10世がイングランドに亡命。これが七月革命である。イタリアのカルボナリの残党も参加していた。
立憲君主政へ
前国王シャルル10世が亡命すると、ラ=ファイエットらのパリの自由主義派(富裕層)が政治を行った。彼らは、共和政ではなく、立憲君主制を選択した。
新国王は、ブルボン家分家のオレルアン家から選出された。ルイ=フィリップである。ルイ=フィリップ新国王は、フランス革命期に、ラ=ファイエットら自由主義派と親交を深めていた。
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」
画家ドラクロワは、七月革命の様子を描いた。「民衆を導く自由の女神」である。
ドラクロワは、ロマン主義を代表する画家の1人である。ギリシャ独立戦争に参加したイギリスの詩人バイロンや、ポーランドの音楽家のショパンと親交があった。
二月革命の影響
七月王政
ルイ=フィリップ
七月王政のときの国王は、ブルボン家オレルアン公のルイ=フィリップである。ルイ=フィリップは、フランス革命期に自由主義派のラ=ファイエットらと親交を深めていた。
制限選挙
七月王政は、制限選挙による立憲君主制を選択した。選挙権を持ったのは、超富裕層のみで、ほとんどの国民は選挙権を持てなかった。
制限選挙を選択したのは、フランス革命の反省からである。普通選挙を実施することで、ロベスピエールの恐怖政治が起きたからである。
制限選挙の実施で、産業資本家に有利な政策が行われた。これにより、フランスの産業革命が始まった。
33年、一定規模の市町村に男子小学校の設置を義務付ける初等教育法が制定された。
アルジェリアとエジプト=トルコ戦争
アルジェリア
30年6月、シャルル10世はアルジェリア出兵。フランスはアルジェリアを占領した。同じ頃、パリでは七月革命が勃発。シャルル10世が退位。七月王政が始まった。七月王政も、アルジェリア出兵を支持した。
アルジェリアは、アフリカ北西部の地中海沿岸の国家である。フランスの真南に当たる国である。
アルジェリアでは、反乱が続いた。そこで協力を求めたのがエジプト総督のムハンマド=アリーである。
第一次エジプト=トルコ戦争
31年、エジプト=トルコ戦争が勃発。
フランスは、アルジェリアの反乱鎮圧の支援の見返りにエジプトを支援した。
ロシアは、オスマン帝国支援に回った。
33年、イギリスの仲介で終結。オスマン帝国は、シリアの行政権をエジプトに引き渡された。
第2次エジプト=トルコ戦争
39年6月、シリア奪還のためにオスマン帝国はエジプトへ侵攻した。
フランスはエジプトを、ロシアはオスマン帝国をそれぞれ支援した。しかし、イギリスは、フランスの巨大化を恐れて、オスマン帝国の支援に回った。
緒戦は、オスマン皇帝が戦死する大敗する。それを受けて、ロシアは外交戦に展開した。ロシアは、旧五国同盟のプロイセンとオーストリアに、オスマン帝国支援に回った。
フランスは、孤立化を恐れエジプトの支援をやめた。
ロンドン会議
翌40年、戦勝国のオスマン帝国、ロシア、イギリス、プロイセン、オーストリアでロンドン会議を開催。
シリアは、オスマン帝国に返還された。一方で、ムハンマドアリーにエジプトとスーダンの世襲が容認された。