1830年代のシリア・パレスチナ エジプト=トルコ戦争の係争地として

前回の復習 1840年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀前半のオスマン帝国は、異民族の独立運動に悩まされた。

 40年代のオスマン帝国は、西欧化政策(タンジマート)が展開されていた。オスマン帝国領のシリアには、ヨーロッパ商人が次々移住した。

1830年代の国際情勢

 1830年代の日本は江戸時代後期。天保の大飢饉が化成バブルが崩壊した。

 ヨーロッパでは、フランスの七月革命をきっかけに各地で市民革命が起こる。

原因は、ギリシャ独立戦争の恩賞

 エジプト総督のムハンマド=アリーは、ギリシャ独立戦争の援軍の見返りに、シリア総督の地位を求めた。しかし、オスマン皇帝マフメト2世はこれを拒否。クレタ島とキプロス島の行政権のみを渡した。

第1次エジプト=トルコ戦争

 31年、エジプト総督のムハンマド=アリーは、シリアへ兵を進めた。

 これをバックで支えたのは、フランスである。フランスは、七月革命で七月王政が成立していた。都市の金持ちが政治の中心にいた。アルジェリアに進出。市場拡大に躍起になっていた。

 32年、劣勢になったオスマン皇帝マフメト2世は、ロシアに援軍を要請。ロシアは、この見返りにボスフォラス=ダーダネルス海峡の自由航行権をオスマン皇帝に認めされた。

 ロシアの地中海進出である国が警戒した。それが、イギリスである。イギリスは、エジプト側について、仲介工作を開始した。

 33年、第1次エジプト=トルコ戦争が講和。オスマン皇帝は、ムハンマド=アリーにシリアの総督権を与えた。また、オスマン皇帝は、ロシアにボスフォラス=ダーダネルス海峡の自由航行権を認めた。

西欧諸国への約束 タンジマート

イギリスと通商航海条約を締結

 38年、オスマン帝国は、イギリスと通商航海条約を締結。この条約は不平等条約で、オスマン帝国は、イギリスに対して治外法権をみとめ、関税自主権を放棄した。

 この条約は、58年の日米修好通商条約のベースになった。

第2次エジプト=トルコ戦争

 皇帝マフメト2世は、この条約でイギリスを味方につけた。これを機に、オスマン帝国は、失ったシリアを取り返そうとした。しかし、エジプトに返り討ちにあった。

ギュルハネ勅令

 この戦争中に、マフメト2世が崩御。アブデュルメジト1世が即位。政治は、宰相が努めた。39年11月、バラ園(ギュルハネ)に有力者と各国大使をあつめて、所信表明演説を行った。これがギュルハネ勅令である。

 これに基づいて始まったのが、タンジマートである。この根幹になるのは、異教徒・異民族の保護である。これは、2角意味合いがあった。1つは、独立運動の防止であり、2つ目は、ヨーロッパ諸国の援助である。

ロンドン講和会議

 ムハンマド=アリーは、エジプトとシリア総督の世襲権を求めた。事実上の独立である。当時のムハンマド=アリーが担当した地域は、エジプト・シリアのほか、メッカメディアのあるヒジャーズ地方やスーダンを獲得した。

 エジプトは、フランスをバックに付けて、世襲権を要求した。

 しかし、オスマン帝国側には、イギリスとロシアがついていた。イギリスは、ロンドン会議を招集。イギリスとロシア、オーストリア、プロイセンで仲介案を取りまとめた。

 この仲介案は、ムハンマド=アリーの世襲権を認める。いっぽうで、重要の商業地域であるシリアをオスマン帝国に返還させた。