1850年代のドイツ クリミア戦争と プロイセン王国

ドイツ連邦

 1850年代のドイツはどのような状況であったのであろうか。ドイツは、ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が名目上も崩壊した。1815年のウィーン会議でドイツ連邦が結成された。

 ドイツ連邦のトップは、過去に神聖ローマ皇帝を出し続けていたハプスブルグ家のオーストリアである。三月革命(48年革命)でメッテルニヒ首相が亡命。

 一方で、No2は、プロイセン王国である。ドイツ連邦はオーストリアとプロイセンの主導権争いで常に紛糾していた。

 48年のフランクフルト国民会議でドイツの統一について話し合われたが決裂。会議によるドイツ統一の道は閉ざされた。

クリミア戦争

 1850年代のヨーロッパはどのような状況であったのであろうか。

 1850年代のヨーロッパはクリミア戦争の真っただ中にあった。クリミア戦争は、ロシアとオスマン帝国の戦争であったが、イギリスフランスがオスマン帝国の支援に回ったため、ヨーロッパ各国を巻き込む戦争となった。その戦闘地域の中心は黒海に浮かぶクリミア半島であったが、その戦闘範囲は北海道近海まで及んだ。

 オーストリアはこの戦争に中立の立場をとっていたが、オスマン帝国側が優勢とみるや、オスマン帝国側での開戦縦鼻に入っていた。しかし、戦闘に加わる前にクリミア戦争は終結した。

 この戦争は、オスマン帝国軍の処理で終結した。そこで名をあげたのが、イギリスのパーマストン首相とフランス皇帝ナポレオン3世である。

プロイセン憲法の制定

 プロイセン王国は、憲法制定し、立憲君主制を導入した。この憲法は欽定憲法の形をとった。欽定憲法とは、議会や国民投票ではなく、皇帝や国王の承認で成立した憲法をいう。帝国憲法も欽定憲法である。この憲法の特徴は、首相を国王が指名する形をとった。なお、1871年に成立したドイツ帝国憲法は、プロイセン憲法をほぼ踏襲した。

オーストリアの反動政治

 三月革命(48年革命)を鎮圧したオーストリアでは、ヨーゼフ1世が皇帝に即位した。ヨーゼフ1世は、クロアチア人やロシア軍の力を借りて、諸国民の春(オーストリア国内の異民族の独立運動)を鎮圧した。

 また、前皇帝フェルディナント1世が約束した憲法制定は反故にし、自由主義運動に参加したものを次々と弾圧した。

イタリア統一戦争

 オーストリアは、1815年のウィーン会議で北イタリアのロンバルディア(ミラノ)とヴェネツィアを獲得した。しかし、諸国民の春(48年革命)でロンバルディアとヴェネツィアがした蜂起した。これは鎮圧された。

 そのような中で、サルディーニャ王国宰相カブールは、ナポレオン3世の援軍を得て、59年にオーストリア領ロンバルディア・ヴェネツィアへ侵攻した。

 サルディーニャ王国は、ロンバルディアを占領するとナポレオン3世がオーストリアと単独講和。カブールは、ヴェネツィアをあきらめざるを得なくなった。このヴェネツィアは、普墺戦争時にイタリアに返還される。

 

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