14世紀のイタリア 都市共和国とローマ教皇

前回の復習 15世紀のイタリア

 15世紀のイタリアは、フィレンチェのメディチ家が台頭した時期である。これにより、イタリア=ルネサンスが始まった。

 今回も、テーマはローマ教皇である。グレゴリウス13世について見ていきます。

都市共和国

教皇派(ゲルフ)vs 皇帝派(ギベリン)

 11世紀から14世紀にかけて、イタリアでは教皇派と皇帝派の対立が続いていた。

 その始まりは、叙任権闘争であった。叙任権をめぐりローマ教皇と神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)が争った。

 神聖ローマ帝国から独立したい大商人たちはローマ教皇側について、神聖ローマ皇帝と戦った。これに対し、中小の貴族は、自らの地位を教皇派に奪われないように皇帝派に就いた。これにより、教皇派と皇帝派の対立が始まった。

教皇派(ゲルフ)皇帝派(ギベリン)
都市共和国
大商人
中小都市
封建領主(貴族)
ミラノ(ロンバルディア同盟)
フィレンチェ
ナポリ
ヴェローナ
ピサ
シエナ

ヴェネツィア vs ジェノヴァ

 80年、ジェノヴァ共和国は、キオッジアの海戦でヴァネツィア共和国に敗北。ヴァネツィア共和国は、地中海の制海権を得、東方交易を独占した。

 一方、ジェノヴァの商人たちの一部は、ポルトガルやスペインにわたり、15世紀の大航海時代の基礎を築いた。その一人がコロンブスであった。

 14世紀末、イタリアは5つの国家に集約された。ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ローマ教皇国とナポリ王国である。

フィレンツェ

 フィレンチェは中部イタリアの都市で、ローマの北にあると都市共和国である。

 13世紀、フィレンチェは大商人を中心とした教皇派(ゲルフ)と下層市民を中心とした皇帝派(ギベリン)の対立が続いた。

 14世紀に入ると、教皇派(ゲルフ)が優位になった。この頃になると、ゲルフ内の対立が激しくなった。改革派(白派)と保守派(黒派)の対立である。

 00年、改革派政権が成立。保守派の大弾圧が行われた。改革派には、ダンテやペトラルカの父がいた。しかし、02年、ローマ教皇ボニファティウス8世がフィレンチェを破門。保守派が台頭。ダンテらは国外へ亡命した。なお、ボニファティウス8世は、翌03年アナーニ事件で憤死する。

 14世紀後半、ペストの流行で不況になる。これにより下層市民の反乱が起こる。これを鎮圧。大商人を中心とした政治体制が確立される。その中心がメディチ家であった。

ミラノ大聖堂

 86年、ミラノ大聖堂の建築が始まる。

 ミラノは、北イタリア最大の都市である。教皇派のロンバルディア同盟の中心都市である。14世紀末に教皇派が優勢になるとミラノ大聖堂の建設を開始した。

 ミラノ大聖堂は、後期ゴシック様式の代表的な建築の1つである。ゴシック様式とは、ゴード風の意味で東ゴード族の建築様式に似ていたことからこの名がついた。高くとんがった屋根が特徴である。また、建築技術の向上で、薄い壁と広い窓が可能になった。広い窓を使ったステンドグラスが特徴である。

文化

人文主義

 14世紀のフィレンチェ(イタリア)では、人文主義の文学作品が次々登場した。代表的な作家はペトラルカとポッカチオである。人文主義とは、キリスト教の影響を受けつつも、ローマ教会の権威主義や形式主義を批判するものであった。

背景には、14世紀初頭のアナーニ事件などのローマ教皇の権威を失墜させる事件が相次いだことがある。

 カトリック系の教会は、人文主義を危険思想としてしばしば弾圧した。

 16世紀になると、印刷技術の向上でこれらの作品が多くの人の目に留まるようになった。これが16世紀後半の宗教改革へつながる。

ペトラルカ

 ペトラルカは、14世紀の人文主義の作家である。拠点はフィレンチェである。父は、13世紀の代表的作家ダンテと交流があり、ペトラルカもダンテの影響を受けている。代表作は『叙情詩集』である。

ポッカチオ

 ボッカチオは、14世紀の人文主義の作家である。拠点はフィレンチェで、ペトラルカとも交流がった。代表作は、当時流行していペストを題材にした『デカメロン』である。

羅針盤

 羅針盤とは、現在でいう方位磁石である。中国(宋王朝)では11世紀に実用化されている。この技術は、宋王朝に商人として滞在していたムスリム商人に伝わり、14世紀には、東方貿易を通じて、イタリア商人にも伝わった。

 15世紀に入ると没落したジェノヴァ商人によって、ポルトガルやスペインに伝わり大航海時代へ向っていく。

ピサ共和国の衰退

 ピサは、ピサの斜塔で有名なピサ大聖堂のある港町である。フィレンチェの近くにあるイタリア中部の都市である。

 ピサは、11世紀に都市共和国になった。サルディーニャ島を統治するイタリア半島の主要国の一つであった。

 衰退が始まったのは、13世紀後半からである。13世紀後半、ピサはジェノヴァに敗北。主要な港をジェノヴァに奪われた。26年、シチリア王であるアラゴン国がサルディーニャ島を征服。99年、ピサ共和国は、ミラノ公国の自治領になる。

 15世紀に入ると、ミラノ公国は、ピサ共和国をフィレンチェに売却。ピサでは反乱がおきたが、フィレンチェはこれを鎮圧した。

ローマ教皇の没落

教会大分裂

 77年、教皇グレゴリウス11世は、多くのキリスト教徒の支援を受けてローマへ帰還。教皇のバビロン捕囚は終わった。

 翌78年、教皇グレゴリウス11世が崩御。新教皇をめぐり、フランス人枢機卿とローマ貴族出身の枢機卿が対立(枢機卿とは教皇の最高顧問で次の教皇を決定する)。

 ローマ市民が、ローマ教皇庁に乱入。フランス人枢機卿は教皇庁から逃げ出した。ローマ貴族の枢機卿によって、教皇を選出した。

 一方逃亡したフランス人枢機卿は、アナーニに集まり別の教皇を選出。アヴィニョン教皇庁へ戻っていった。これにより、教皇2人いる異例の事態になった。これを教会大分裂(大シスマ)という。

 余談だが、当時の日本は南北朝の時代で天皇が2人存在した。

教皇のバビロン捕囚

 03年、アナーニ事件でボニファティウス8世が憤死。次の教皇も、翌04年に崩御した。次の教皇をめぐり、枢機卿はフランス派と反フランス派で対立。この対立は翌05年に持ち越され、ボルドー大司教のクレメンス5世が即位した。

 フランス国王フィリップ4世は、教皇の安全のため、南フランスのアヴィニョンに移ることを提案。教皇クレメンス5世はこれを承諾した。ここから、77年のグレゴリウス11世の帰還までローマでは教皇不在の状態が続く。これを教皇のバビロン捕囚という。

アナーニ事件

 1294年、ボニファティウス8世が教皇に就任。十字軍を編成しようとしたが、フランス国王フィリップ4世はこれを財政難から拒否した。

 このころ、フランス国王フィリップ4世は、教会財産への課税を画策していた。00年、最後の審判が起きなかったことを確認すると、02年三部会を招集。教会財産への課税が決まった。

 教皇ボニファティウス8世は、これに対し、教会への課税にはローマ教皇の承諾が必要との勅令を発布。国王フィリップ4世はこれを無視した。さらに、ローマ教皇庁への献金を停止。

 教皇ボニファティウス8世は、国王フィリップ4世を破門した。これは国王フィリップ4世の想定内でこれで態度を改めることはなかった。

 その中で、フランス貴族の過激派が、アナーニ滞在中の教皇ボニファティウス8世を幽閉。退位を迫った。教皇ボニファティウス8世はこれを拒否。アナーニ市民によってアナーニを脱出。ローマの教皇庁へ帰還するも、そのまま憤死した。

 このアナーニ事件の背景には、13世紀の大空位時代がある。本来、ローマ教皇の後ろには神聖ローマ皇帝がいる。この頃の神聖ローマ皇帝は、弱小貴族のハプスブルク家であった。そのため、フランスと対立するほどのパワーはなかった。

シチリア王国とナポリ王国

 南イタリアは、13世紀末のシチリアの晩鐘でシチリア王国とナポリ王国に分裂した。

 半島部のナポリ王国は、フランス貴族のアンジュー家がおさめていた。アンジュー家は教皇派(ゲルフ)の立場をとり、周辺の皇帝派(ギベリン)の国を攻撃した。勢力を拡大させた。

 シチリア国王のアラゴン家は、ジェノヴァに敗北したピサ共和国から、サルディーニャ島を奪った。