前回の復習 1850年代のイタリア
1850年代は、イタリア統一戦争を通じて、61年にサルディーニャ王国はイタリア王国になった。
さて、1840年代のイタリアでは、48年革命とイタリア統一への影響を見ていきます。
ローマ共和国
48年革命
48年、フランスで二月革命が発生。七月王政が倒れた。これにより、ヨーロッパ各地で市民革命が勃発した。これを48年革命という。
イタリアでは、1月に南イタリアのシチリア島で暴動が発生。当時、シチリア島などの南イタリアは、スペイン=ブルボン朝の支配下にあった。その後、フランスの二月革命とオーストリアの三月革命を受けて、北イタリアのミラノとヴェネツィアでも蜂起が起きた。これらの地域は、オーストリア=ハプスブルグ家の支配下に入った。
青年イタリアのマッツィーニ
マッツィーニは、19世紀前半のイタリアで活躍した共和主義者である。
31年、フランスの七月革命を受けて「青年イタリア」を結成。イタリア各地で蜂起した。しかし、いずれも失敗。スイスへ亡命した。その後、ロンドンに渡り、イギリスのチャーチスト運動を目の当たりにする。
そして、イタリアへ戻り48年を迎える。
サルディーニャ王国
オーストリアに敗戦
ウィーン三月革命受けて、北イタリアのミラノやヴェネツィアで反乱が発生した。これらの地域は、オーストリア=ハプスブルグ家の支配下にあった。ミラノとヴェネツィアは、オーストリア=ハプスブルグ家からの独立と共和制への復帰を宣言した。
サルディーニャ王国は、ミラノやヴェネツィアを支援した。そして、オーストリア=ハプスブルク家に宣戦布告した。
当初、反乱軍が優勢であった。しかし、マッツィーニを中心とした共和政派とサルディーニャ王国への併合派で対立、この分裂の中で、オーストリア=ハプスブルグ家軍が反撃。反乱軍は鎮圧された。
サルディーニャ王国とは
サルディーニャ王国の始まりは、イタリア北西部のサヴォイア家である。都はトリノである。
15年のウィーン会議では、ジェノヴァとサルディーニャ島を獲得した、イタリアの主要国の一つになった。
ローマ共和国
オーストリアに敗北したマッツィーニは、イタリア中部のローマへ向った。49年、マッツィーニは教皇領ローマで蜂起。ローマ教皇は、スペイン領であった南イタリアのナポリへ亡命した。
マッツィーニは、1月に男子普通選挙を実施。議会を発足。2月、ローマ共和国の建国を宣言した。
しかし、4月、フランスのナポレオン3世がローマ共和国へ侵攻。7月、ローマ共和国は崩壊。翌50年5月に、ローマ教皇が帰国。教皇領が復活した。この経緯があり、その後、フランスがローマ教皇領を防衛することになった。