前回の復習 1860年代のイタリア
1860年代、ヨーロッパではプロイセン王国の宰相ビスマルクがドイツ統一のために戦争を繰り返していた時代である。建国したばかりのイタリアは、この戦争を通じてヴェネツィアとローマを併合した。
さて、1850年代のイタリアでは、イタリア統一の歴史を見ていきます。
南イタリアのカリバルディ
野党党首としてのガリバルディ
南イタリア献上後、ガリバルディはイタリア議会の議員となった。ガリバルディは、カブール首相を批判。厄介者扱いされていた。ちなみにこの時、議員になったのが後のクリスピ首相である。
サルディーニャ王国への献上
60年10月、ガリバルディはサルディーニャ国王ヴィットリオ=エマヌエール2世と会見。南イタリアを無条件でサルディーニャ王国に献上した。
ガリバルディも共和主義者であった。(共和主義とは、国王を廃位して選挙で選ばれた大統領が政治を行うことを理想とした考え方。)しかし、ガリバルディはマッツィーニと違い、妥協ができ、共和制の樹立よりもイタリアの統一を目指した。
南イタリアの独立
イタリア統一戦争が終結すると、ガリバルディは南イタリアへ向った。南イタリアの要請があったからである。
当時、南イタリアは、スペイン(スペイン=ブルボン家)の支配下にあった。これは、1815年のウィーン会議の決定による。
南イタリアで独立運動を展開していたのは、のちにイタリア首相になるクリスピ氏である。クリスピ氏は、マッツィーニの影響を受けて共和主義者になり、独立運動を開始した。そして、イタリア統一戦争の英雄であるガリバルディに応援を要請した。
ガリバルディは、60年5月に、シチリア島に上陸。独立を宣言。シチリア島の中心地パレルモを包囲、翌6月にスペイン=ブルボン朝軍が撤退した。
その後、ガリバルディは南イタリアに上陸。ナポリを占領した。
イタリア統一戦争
概要
イタリア統一戦争とは、イタリア王国がイタリア北西部(ロンバルディア)のオーストリア領を併合するために起こした戦争である。
未回収のイタリア
イタリアはフランスとともにオーストリアに宣戦布告した。しかし、59年7月、フランスのナポレオン3世はオーストリアと単独講和。イタリア王国はこれに追随せざるを得なかった。首相のカブールをはじめ、多くのイタリア国民はこれに憤慨した。
これにより、イタリアの大部分は併合できたもののトリエステやヴェネツィアはオーストリア領として残った。これを未回収のイタリア問題という。ヴェネツィアは普墺戦争時に、トリエステと南チロル地方(トリエント)は、第一次世界大戦時に併合された。南チロル地方のトリエントは、16世紀半ばにトリエント公会議が行われた場所である。
この戦争に参加したガリバルディは、イタリア統一戦争が終結すると、クリスピの要請を受けて南イタリアへ向った。
経緯
イタリア統一戦争は、サルディーニャ王国側に、ナポレオン3世率いるフランス軍とガリバルディ率いる義勇軍が参加した。一方、オーストリアは単独で戦った。
イタリア統一戦争は、59年6月に始まった。サルディーニャ王国は辛くも勝利した。そのため、サルディーニャ王国側も大北被害が出た。特にフランスが多くの犠牲者が発生した。そのため、フランス世論は反戦に向かった。ナポレオン3世は、国内世論の影響で戦争を継続することができなくなった。そのため、翌7月オーストリアと単独講和に踏み切った。
ナポレオン3世との密約
では、なぜナポレオン3世はサルディーニャ王国(後のイタリア王国)側についたのであろうか。
これは、サルディーニャ王国とフランスの間で密約が結ばれていた。サルディーニャ王国は、イタリア北西部(ロンバルディア)を征服したら、イタリア北東部(フランス南西部)のサヴォイアとニースの割譲を約束したからである。
これは、宰相カブールが単独で進めていた。サルディーニャ国王は当初反対していたが、最後には折れた。
また、ニース出身のガリバルディは、この密約に激怒した。そのため、カブールとガリバルディが建国後も対立した。このため、国民の支持が高いにもかかわらず、ガリバルディが首相になることはなかった。
国際赤十字の始まり
クリミア戦争
概要
1853年にはじまった。ロシアとオスマン帝国の間で行われた戦争である。
イギリス(パーマストン首相)とフランス(ナポレオン3世)が、オスマン帝国を支援した。サルディーニャ王国も、オスマン帝国側についた。
この時、オーストリアは48年革命の影響で起きた諸民族の独立運動で疲弊していた。そのため、クリミア戦争に関与する余裕はなかった。
クリミア戦争後の西ヨーロッパ
サルディーニャ王国の宰相であるカブールは、クリミア戦争を通じてナポレオン3世と仲良くなった。これが、イタリア統一戦争につながる。
イギリスとフランスは、軍隊を東アジアの清王朝へ向けた。アロー戦争である。当時の清王朝は太平天国の乱で混乱していた。
ナポレオン3世
フランスは、48年革命で七月王政が倒れて、第二共和政へ移行した。この大統領選挙で勝利したのがナポレオン3世である。では、なぜこの時期にナポレオン3世の発言力は高まったのであろうか。
19世紀、最も力を持っていたいのはイギリスである。しかし、この時期のイギリスはインド大反乱で混乱をしていた。
No2は、ロシアである。しかし、クリミア戦争の敗北で発言力が低下していた。
オーストリアは、48年革命の影響で各地で反乱が起きていた。プロイセンは、ドイツ帝国建国に向けて混乱をしていた。
主要国が混乱していく中で、ナポレオン3世の発言力が強まったのである。