前回の復習 10世紀の日本
10世紀の日本は平安時代。遣唐使が廃止。日本独自の文化が形成された時代である。政治では、藤原北家全盛の時代。10世紀末に登場したのが、藤原道長であった。
9世紀の国際情勢
9世紀の世界は、どのような状況であったのであろうか。
中国は、唐王朝の時代。北元と呼ばれるようになる。明王朝が成立した。
ヨーロッパでは、
流れ 平安時代の始まり
桓武天皇 (平安京と東北)
桓武天皇の治世
94年、平安京の遷都が完了。平安時代が始まる。桓武天皇の治世である。
桓武天皇は、2つ国家事業を実施した。1つは、公共事業(造作)である平安京の造営である。もう2つは、軍事の東北征討である。
東北征討
東北征討は、前天皇の光仁天皇の時代の反乱から始まった。80年の東北で大乱。しかし鎮圧することができなかった。
反乱の中心地は、太平洋(東)側の北部で、現在で言う青森県東部や岩手県北部のエリアである。この地域には八戸のように◯戸が多い。この戸が平安時代の軍事拠点を表す言葉であった。
01年2月、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命。東北征討へ向かわせた。02年に反乱軍の中であった阿弖流為(あてるい)が帰順した。
その後、坂上田村麻呂は、アテルイ(阿弖流為)の除名をもとめたが、朝廷は処刑を決めた。
05年、坂上田村麻呂は、平安京の東に清水寺を建立。ここにはアテルイ(阿弖流為)の碑がある。なお、12世紀に武家政権を樹立した平清盛は、清水寺の近くの六波羅に邸宅を構えた。
05年、徳政論争で中断。
11年、東北征討が完了した。
軍事改革 健児の制
2大事業により、農民負担が増加した。その軽減策として、桓武天皇は、新たな政策を打ち出した。それが軍団の廃止である。
軍団とは、奈良時代の軍事システムで、農民の労務負担の一つである。一定の条件を満たした農民で構成される軍事組織で、国司の下に置かれた。平時のときは、地元の治安維持や災害対策を行った。有事のときは、中央へ動員された。
軍団の廃止の理由は、3つである。
- 2大事業(平安京造営と東北征討)への集中
- 均田制の衰退。(逃亡農民の増加)
- 国司の私的利用(国司の荘園開発に利用)
軍団のかわりに組織された軍事組織が健児(こんでい)である。健児は、郡司(現在でいう市長や町長)や有力農民の子弟で構成された。また、国境の町である東北と九州は軍団は存続した。
徳政論争(2大事業の中止)
04年、最澄と空海が遣唐使として中国(唐王朝)へ留学。
翌05年、最澄が帰国。坂上田村麻呂が清水寺が建立。この年に行われたのが徳政論争である。
藤原緒嗣(式家)と菅野真道の間で起こった論争である。現場責任者である菅野真道は、平安京造営(造作)と東北征討の継続を訴えた。これに対し、藤原緒嗣は、負担軽減のために中止を訴えた。桓武天皇は、国民の負担を考え2大事業を中止した。
翌06年、桓武天皇は崩御。平城天皇が即位した。
薬子の変と蔵人頭
仲成・薬子兄妹
薬子の変とは、10年9月に起きた、平城上皇と嵯峨天皇の権力闘争である。嵯峨天皇側についた藤原式家は没落。このあと、藤原北家が中心になる。
06年、平城天皇が即位。側近についたのが藤原式家の藤原永形である。父は、藤原種継で、長岡京の責任者で、暗殺により無念の死を遂げた。妹の薬子は、平城天皇の寵愛を受けた。
09年、平城天皇は病気を理由に、異母弟の嵯峨天皇に譲位。奈良(平城京)に隠居した。その後、体調が回復。平城京への遷都を画策した。その裏側にいたのが仲成・薬子の兄妹である。
天皇の秘書 蔵人頭
2人とって、平安京は、父種継の暗殺によって成立した都。あまり心地の良い都ではなかった。薬子は、この時、摂政・関白の前身である「内侍」として、平安京に残った。「内侍」は、天皇の秘書的役職で令外の官である。この「内侍」には、2つの重要な業務があった。
- 臣下の言葉を天皇に伝える
のちに「内覧」とよばれる業務。この業務により、天皇に与える情報をコントロールすることができた。 - 天皇の言葉を臣下に伝える
薬子は、この業務を使って、平城上皇が好しとするもののみを臣下に伝えた。
平城上皇は、「内侍」の薬子を通じて、朝廷をコントロールした。嵯峨天皇は、これを心よく思わなかった。そこで、「内侍」に変わる役職を設けた。これが、「蔵人頭」である。
「蔵人頭」は、令外の官で天皇の秘書的な役割を担った。初代についたのは、藤原北家の藤原冬嗣である。
薬子の変
そして、10年9月、事件は起きた。平城上皇が。内侍の薬子をつうじて、平城京遷都を宣言。嵯峨天皇は、蔵人頭の冬嗣を通じてこれを否定。平城京へ兵を送った。
平城天皇は、出家して嵐山に隠居。仲成は、戦死。薬子は自害した。
影響
薬子の変により、大きな影響を与えた。
藤原家の中心は、薬子の式家から、冬嗣の北家に移った。
また、嵯峨天皇は、平安京を「万代宮」といい、平安京が未来永劫の都とした。江戸時代まで都は京都であった。明治時代に明治天皇の東京行幸が行われたが、遷都の宣言は行われていない。
また、嵯峨天皇は、上皇の政治参加を防止するために権限に成約を与えた。これにより、公卿の権限が強化された。
平城京の出兵により、蔵人頭が政治的な秘書の役割に加えて、軍事や警察の役割を担うようになった。
嵯峨天皇の政治
嵯峨天皇の時代、律令のカスタマイズ(国風化)が行われた。
まずは、前述の蔵人頭の設置である。
また、平安京の警備を行う検非違使を設置した。検非違使は、当初、警察的な役割であったが、のちに裁判機能も兼務するようになる。
また、律令をカスタマイズした格式が整備された。格は、律令の規定を補足・修正したものである。現在で言う改正法である。式は、律令の補足をしたものである。現在で言う、政令のようなものである。
藤原良房の他氏排斥
薬子の変で、藤原北家が台頭した。薬子の変では、冬嗣が蔵人頭として、活躍した。
良房は、冬嗣の子である。42年の承和の変で伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)を失脚させた。
40年に、淳和上皇が崩御。42年に、嵯峨上皇も崩御した。皇位継承を担う2人の上皇がいなくなった。これにより、皇位継承問題による混乱が始まった。
当時、皇太子は、淳和天皇の子である恒貞親王であった。これに対し、摂政の良房は、孫の道康親王を皇太子にしようとした。そのため、恒貞親王を守るため、伴健岑や橘逸勢らが動いた。時の天皇である仁明天皇は、謀反とみとめ、恒貞親王を廃太子とし、伴健岑と橘逸勢を流罪にした。
58年、清和天皇を即位させ、外祖父として民間人初の摂政となった。
66年、応天門の変で、伴家や紀家を没落させた。応天門の変とは、大納言の伴善男(とものよしお)が応天門を放火。その罪を左大臣の源信(みなもとのまこと)に追わせて失脚させようとした事件である。
藤原基経と阿衡の紛議
良房の地位を継いだのは、基経である。
基経は、陽成天皇に譲位させて、光孝天皇を即位させた。光孝天皇は、84年にその見返りに基経を関白に就任させた。
88年、宇多天皇が即位。このときに就任の勅書に抗議して撤回した。これが阿衡の紛議である。こうして、藤原北家の勢力は拡大した。
藤原時平 VS 菅原道真
阿衡の紛議で、宇多天皇と藤原基経の関係は悪化した。さらに、宇多天皇は、藤原家を外祖父に持っていない。そのため、宇多天皇は、摂政や関白を置かなかった。このときに台頭したのが、学者の菅原道真である。
94年、藤原時平は、菅原道真を遣唐大使に任命。遣唐使として派遣して、政治の中枢から外そうとした。しかし、菅原道真は、遣唐使廃止を建議。宇多天皇はこれを採用した。
醍醐天皇の治世に入ると、左大臣に藤原時平、右大臣に菅原道座でが就任。
政治 他氏排斥
他氏排斥とは
歴代天皇と外祖父
桓武天皇 平安時代を始めた天皇
天武朝が断絶すると、天智天皇の孫である光仁天皇が即位。桓武天皇は、光仁天皇の子である。06年に崩御。
桓武天皇は、多くの親王や内親王に恵まれた。
皇后は、式家の藤原良継の娘である。平城天皇と嵯峨天皇が誕生している。
また、夫人には、式家の藤原百川の娘であり、淳和天皇が誕生している。
89年、孫の高望王らが臣籍降下した。平安京の名を取り、平の姓を賜った。これが桓武平氏の始まりである。
06年、平城天皇 薬子の変
06年に即位。09年4月、体調不良により譲位。
外祖父は、式家の藤原良継である。皇后は、同じ式家の百川であり、内侍には、式家の種継の娘である薬子である。
なお、孫に在原業平がいる。
09年、嵯峨天皇 薬子の変を鎮圧
09年、平城上皇の譲位により即位。23年に譲位。
平城天皇の実弟。外祖父は、式家の藤原良継である。
薬子の変で、上皇の権限を制限。代わりに政治的発言力を持ったのが外祖父になる。
皇后は、橘家の娘。仁明天皇が誕生した。
息子には、臣籍降下した源信(みなもとのまこと)がいる。源信は応天門の変で嫌疑をかけられた。源信の弟の源融(みなもとのとおる)も臣籍降下。応天門の変の後、源信が事故死。かわりに政界入りした。
23年、淳和天皇 中継ぎとして
23年に即位。33年に譲位。
平城天皇・嵯峨天皇の異母弟。外祖父は式家の藤原百川である。中継ぎの天皇とされた。皇統を嵯峨天皇に集中させるために、桓武平氏が臣籍降下している。桓武平氏の祖である高望王は、淳和天皇の異母弟の孫になる。
薬子の変で式家が没落。后は皇族ばかりである。皇后は、嵯峨天皇の内親王。妃には、桓武天皇の内親王が入った。
33年、仁明天皇 承和の変
33年に即位。50年に崩御。
嵯峨天皇の息子で、外祖父は橘家。
42年、嵯峨上皇が崩御。承和の変で外戚の橘家や有力貴族の伴氏が没落した。
薬子の変のあとなので、皇后は、式家から北家に変わる。
皇后は、蔵人頭の冬嗣の娘。文徳天皇が誕生。
女御には、藤原北家の分家の娘がいて、光孝天皇が誕生。
50年、文徳天皇 藤原冬嗣が外祖父に
50年に即位。58年崩御。
仁明天皇の子で、外祖父は、藤原冬嗣。
女御には、藤原良房の娘がいて、清和天皇が誕生している。
58年、清和天皇 皇族以外の摂政
58年即位。77年譲位。
文徳天皇の子で、外祖父は、藤原良房。66年、応天門の変によって、伴家が衰退。この年に、外祖父の良房が皇族以外でははじめての摂政に就任。
女御には、冬嗣の孫で基経の異母妹。陽成天皇が誕生。
基経も2人の娘を嫁がせ、親王が誕生したが、天皇にはなれなかった。
孫には、清和源氏の祖である源経基がいる。
77年、陽成天皇
77年即位。84年譲位。
清和天皇の子で、わずか9歳で即位。摂政には、外叔父の基経が就いた。素行が悪く、17歳で譲位させられた。
84年、光孝天皇 関白誕生
84年即位。87年崩御。
太政大臣の基経は、文徳天皇の異母弟の光孝天皇を中継ぎの天皇として即位させた。すでに55歳であった。外祖父は、藤原北家であるが分家筋であった。基経を関白に任命した。
中継ぎの天皇なので、すべての親王を臣籍降下させた。
87年、宇多天皇 阿衡の紛議
87年即位。97年譲位。
皇太子をめぐり、関白の基経と妹で前天皇の母が対立。皇太子不在の状態で、光孝天皇が崩御。臣籍降下したものを皇籍復帰させ、天皇に即位させた。これが宇多天皇である。
宇多天皇は、引き続き基経を関白にしようとした。このときに起きたのが阿衡の紛議である。その後、基経は関白に就任した。
阿衡の紛議で宇多天皇は藤原北家を嫌っていた。血縁関係もすくなった。そのため、多くの人間が登用された。
孫は臣籍降下。源雅信である。10世紀後半に左大臣に就任。道長の義父になっている。
醍醐天皇
97年即位。930年崩御。
奈良時代の名門 藤原式家
藤原家は、大化の改新で功績を上げた中臣鎌足を祖とする名家である。この藤原家は、8世紀(奈良時代)に4つの家に分裂した。北家、南家、式家、京家である。
式家は、藤原宇合(うまかい)を祖とする家系である。宇合は式部卿であったことから式家呼ばれる。長男の広嗣は、北九州で反乱に失敗。これにより、式家受難の時期を迎える。その弟たちは、恵美押勝の乱の平定や光仁天皇の擁立で復権を果たした。
次男の良継は、娘を桓武天皇に嫁がせることに成功。平城天皇・嵯峨天皇の外祖父になる。
三男の清成は、藤原広嗣の乱のあと消息不明。清成の長男の種継は、良継の支援で光仁天皇・桓武天皇期に活躍した。長岡京の造営の責任者になるも暗殺される。次男の仲成は、薬子の変で戦死。娘の薬子も薬子の変で自害した。
八男の百川は、種継とともに良継をサポート。重臣になる。娘が桓武天皇に嫁ぎ、淳和天皇の外祖父になる。桓武天皇は、百川を最も信頼していた。百川がなくなると息子との緒嗣をめにかけた。この緒嗣は、徳政論争で桓武天皇の2代事業の中止を低減した。薬子の変で仲成らが亡くなると、式家の中心的立場になるが、北家の冬嗣の台頭には勝てなかった。淳和天皇が即位し、外叔父になることには、高齢で政治をする余力はなかった。そのため、政治の中枢は、冬嗣の子の長良・良房兄弟に取られた。子どもにも恵まれず、そのまま没落した。
九男の蔵下麻呂は、孫の藤原吉野が承和の変で失脚している。
平安時代の名門 藤原北家
藤原北家とは
藤原北家は、奈良時代(8世紀)に成立した藤原四家の一つである。最も栄えた家である。江戸時代まで続く五摂家はすべて藤原北家である。
藤原冬嗣
藤原北家を筆頭に押し上げたのは、冬嗣である。藤原四兄弟の房前のひ孫に当たる。蔵人頭として薬子の変(10年)を鎮圧して式家から中心的役割を奪っていく。
23年、淳和天皇が即位。冬嗣が左大臣になり、右大臣には淳和天皇の外叔父である藤原緒嗣(式家・百川の子)が就任した。次男の冬嗣は、嵯峨天皇の内親王を妻に迎える。一方で、自分の娘を嵯峨天皇の子の仁明天皇に嫁つぎ、文徳天皇が誕生している。
淳和天皇期の26年に、没。
六男が勧修寺流を開く。その子孫には紫式部がいる。
26年、長良・良房兄弟
26年に、父の冬嗣、没。長男の長良と次男の良房の時代である。妻が皇族の良房のほうが出世が早かった。
長良は、妻に北家魚名流の総継の娘を迎える。ちなみに、総継は、光孝天皇外祖父になる。その子の基経は、良房に養子になる。また、娘は、清和天皇の女御になり、陽成天皇を誕生させる。56年に、没。
良房は、父が亡くなると、蔵人になる。妻が、嵯峨上皇の娘のため、兄の長良よりも、出世が早かった。
基経
忠平
排斥された人々
橘家
伴家
伴家は、飛鳥時代の豪族大伴氏である。平安時代に伴氏に変更している。武家の家系で、国軍の物部氏に対して、都の警備を主な仕事としていた。
8世紀後半の光仁天皇の時代には、大伴弟麻呂が蝦夷征討で活躍した。その後、藤原種継暗殺事件で大伴継人の一族が流罪になった。
42年の承和の変で伴健岑が流罪になる。
外交)遣唐使
遣唐使
永楽帝
間宮林蔵
ただ、この時点で薩摩藩は勝ち馬に乗ろうと考えていた。第2次長州征討で長州藩が劣勢であれば、薩長同盟を反故にして幕府側に付き、幕府側が劣勢であれば、薩長同盟を利用して長州側につき倒幕に動くつもりでいた。これは、薩摩藩だけではない。朝廷も同じように考えていたものと思われる。
幕府は、第1次長州征討を受けて、領地の削減を命じた。攘夷派政権の長州藩は、これを拒否。66年6月、第2次長州征討が始まる。幕府が劣勢。将軍家茂の死を理由に撤兵した。将軍後見役の一橋慶喜が十五代将軍についた。
66年末、孝明天皇が死去。若き明治天皇が即位した。孝明天皇は、過激な倒幕を好まんでいなかった。そのため、過激な攘夷派は制止されていた。しかし、明治天皇になると、その静止がなくなった。
留学僧 最澄・空海
03年、アメリカ船が長崎に来航
ロシアのレザノフ
失敗
遣唐使の廃止
キリスト教とスペイン・ポルトガル
遣唐使廃止
67年、新将軍徳川慶喜は、フランスの援助の下、幕府の再建に取り組んだ。
一方、薩摩藩は、長州藩とともに武力倒幕を決意。調停に倒幕の勅許を求めた。
これに対抗したのが、土佐藩である。土佐藩は公武合体の立場を取った。藩士の後藤象二郎や元藩士の坂本龍馬らが、前藩主の山内容堂を通して、幕府に大政奉還を進言。薩摩藩らの武力倒幕に先んじて、政権を朝廷に返還する。その後、徳川家を中心とした雄藩連合政権を模索した。
そして、10月14日、徳川慶喜は、大政奉還の上奏を朝廷に提出した。
同じ14日、急進派公家の岩倉具視らと結んだ薩長両藩は、倒幕の密勅を手に入れた。しかし、大政奉還の上奏によって、無効になった。
経済 国司と増税
税収減
奈良時代は、原則公地公民制を取っていた。しかし、口分田が不足し始めた。そのため、7世紀半ばに墾田永年私財法を成立。
県営消費者金融 出挙
税金は、凶作でも豊作でも一定である。凶作になった場合、翌年にまく米がなくなる。そのため、国司は米の貸出を行った。これが、出挙である。出挙の利息は、5割(50%)である。春に貸し出し、秋に税金を収めるときに、税金(租)といっしょに出挙(貸し出した稲穂)の1.5倍を支払う。
高い利息で農民への負担が高いため、出挙については上限が設定されていた、しかし、国司はこれを無視して
田畑永代売買の禁
新政府は、将軍職の他、朝廷の摂政・関白を廃して、新たに、総裁・議定・参与の三職をおいた。参与には、薩摩藩などの有力諸藩を代表する藩士を任命。雄藩連合の形を取った。
同時の夜、小御所会議を開催。徳川慶喜に内大臣の辞退と朝廷(新政府)への領地の一部返還を要求した(辞官納地)。
文化)鎌倉文化
北山文化と金閣寺
戦乱は続いていたが、織田信長・豊臣秀吉によって、京都を中心とした近畿地方は平安が訪れた。これにより、文化の中心は、京都や大坂に戻った。
しかし文化の中心人物は代わった。公家や有力守護大名から、富と権力を握った戦国大名や大商人に代わった。新鮮味あふれる豪華で壮大な文化を生み出した。
また、西洋の文化の影響を受けるようになった。
鎌倉新仏教
桃山文化の特色は、城郭建築である。有力大名は、近畿地方の平地に巨大な城を築くようになった。
- 安土城(滋賀県) 織田信長
- 大阪城(大阪府) 豊臣秀吉
- 伏見城(京都南部)豊臣秀吉<別名、桃山城>
城の内部は、書院造
武家文化 絵画
新古今和歌集、小倉百人一首
東大寺南大門金剛力士像
幕府のインフレ抑制政策
幕府は、江戸のインフレに対応するため、60年江戸五品廻送令を出した。日用必需品である雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の五品については、江戸の問屋を経て輸出するように命じた。これにより、在郷商人は直接外国商人と取引ができなくなった。ちなみに、江戸時代は茶は贅沢品とされたため、対象に含まれていない。
在郷商人や列国はこれに反発。幕府が事実上撤回した。
日本と外国で金銀比価が異なった。これにより、大量の金が流出した。<外国(1:15)、日本(1:3)>。このため、日本は金貨の品質(金の含有量)を大幅に引き下げた。(万延貨幣改鋳)
国内産業の変化
江戸の時代の家内工業は、農村で行われた。綿糸や生糸の製造が行われた。
開国により、輸出品である生糸の価格は高騰。一方で、外国産の安価な綿製品が輸入された。
これにより、綿糸の製造から生糸の製造へ切り替える人々が増えた。
外交 攘夷運動
ウラジオストク
幕末の日本は、存亡の危機が迫っていた。60年、清王朝がアロー戦争でヨーロッパ勢力に敗北。ロシアに日本海沿岸のウラジオストクを割譲した。
これにより、新潟の対岸にロシアの艦隊がいる状態になった。
また、58年大老井伊直弼は、日米通商修好条約を締結し、欧米との貿易が始まった。
薩摩 vs イギリス
薩摩藩は、生麦事件を起こす。生麦事件とは、イギリス人が大名行列を横切ったために殺害した事件である。生麦(横浜市)は、開港地横浜の近郊で、東海道沿いの村である。日本人であればこれは当然のことであったが、これは外国人には通用しなかった。
イギリスは、薩摩藩に対して、賠償金の支払いと殺害者の処罰を要求。薩摩藩はこれを拒否した。
同63年、イギリス海軍は、鹿児島湾にイギリス艦隊を派兵。鹿児島は火の海になった。これにより、薩摩藩は攘夷が不可能であることを思い知らされた。
一方で、イギリス海軍も薩摩藩の砲撃が被弾。これを受け、日本に対して慎重な対応を取るようになった。また、この戦争で、薩摩藩とイギリスは接近した。
長州 vs四カ国連合
長州は、反幕府勢力の筆頭であり、最大の尊王攘夷勢力である。
長州(山口県)には、下関がある。長崎から瀬戸内海を通って神戸に向かうには、下関(関門海峡)を通る必要がある。
63年5月、幕府から攘夷が命じられると、下関で諸外国船を砲撃した。
64年、幕府が第1次長州征伐を実施。これに合わせて、イギリスは、フランス・アメリカ・オランダと下関砲台を攻撃した。(四国艦隊下関砲撃事件)。薩英戦争での被弾を受けて、単独攻撃ではなく、連合軍を結成して攻撃することにした。
翌65年、連合艦隊は、神戸沖に軍艦を派遣。朝廷は日米修好通商条約に勅許を出し、批准した。神戸は京都に一番近い開港場である。
翌66年、幕府は改税約書に調印。貿易上の不平等は更に拡大した。
イギリス・新政府連合軍
イギリス公使パークスは、一連の動きを見て、幕府の無力さを見抜いた。そのため、薩英戦争の結果を見て、薩摩藩に接近。天皇を中心とした雄藩連合政権を実現しようとした。
フランス・幕府連合軍
一方、幕府に近い外国勢力は、反英のオランダとアメリカである。オランダは、ナポレオン戦争やベルギーの独立でかつての勢いはなくなっていた。また、アメリカは、南北戦争がはじまり、外国どころではなくなっていた。
そのため、次のパートナーにえらんだのがフランスである。当時のフランスは、ナポレオン3世の第二帝政期。フランス公使ロッシュは幕府を支援した。
67年、フランス皇帝ナポレオン3世は、パリ万国博覧会に日本の出展を行った。これに対し、イギリスは、パリ万国博覧会に薩摩藩を出展させた。
翌68年に普仏戦争が勃発すると、幕府を支援する余裕はなくなっていた。
樺太・千島交換条約と露土戦争
朝鮮の開国
琉球処分
開国後の文化
西洋技術の取り入れ
幕府は、江戸に蕃書調所(ばんしょしらべどころ)を設置。洋学の教授と外交文書の翻訳に当たらせた。講武所(こうぶしょ)で洋式砲術を教え、長崎製鉄所では蒸気船の製造修理を行った。
60年、勝海舟が、日米修好通商条約の批准交換に際して、国産の蒸気船である咸臨丸で太平洋を横断した。
幕府や薩摩・長州などの諸藩は、外国に留学生を派遣した。
幕府は、フランスの顧問団を招いて、横須賀に造船所を建設した。
地租改正
米騒動
岸政権の時代に安保(日米安全保障条約)が改正。岸政権は改正を実施したが、当時は安保反対デモが発生。これにより、岸政権が崩壊した。
世界恐慌
ちなみに岸首相の孫は、2012年から長期政権を成立させた安倍首相である。
外交)初期議会
朝鮮半島
条約改正
00年4月に成立。
29年7月、立憲民政党の濱口政権が成立。幣原首相がロンドン海軍条約を締結。
明治時代から大正時代へ
12年12月、2個師団増設問題で、陸軍と対立。
第1次松方正義政権 大選挙干渉
91年5月に成立。
蛮勇演説で解散。警察権力を使って自由民権派の議員を減らそうとしたが失敗。
日比谷焼き討ち事件で退陣。
第2次伊藤博文政権
92年8月に成立。板垣自由党を味方につけ、板垣氏を内務大臣につける。
しかし、シーメンス事件で退陣。
第2次桂政権 伊藤博文暗殺
14年4月に成立。桂元首相と大隈派が
第1次世界大戦
これに民衆は反発。第2次護憲運動が起こる。この目的は、普通選挙の実施であった。中心は、護憲三派である。
立憲政友会は、普通選挙賛成派と反対派で分裂した。立憲政友会は、元々富裕層が支持基盤であった。そのため、立憲政友会反対派は、政友本党を結成した。
寺内正毅政権 米騒動で退陣
16年10月に成立。この政権を成立させるために、立憲同志会は、少数政党を吸収し、憲政会を結成した。
シベリア出兵を実施。
一方で、共産党などの危険勢力の台頭を防止するため、治安維持法をあわせて可決した。
原敬政権 立憲政友会
18年9月に成立。
立憲政友会の反原派が離党。立憲同志会と合流し、憲政会を結成する。
加藤高明政権は、病死。
この時期に、大正時代から昭和時代へ
10年代の主要政党
桂園時代、議会は板垣派と伊藤博文元首相が連携した立憲政友会と大隈派の立憲国民党の2大政党政党であった。
桂首相が、西園寺首相率いる立憲政友会に対抗する新党を結成。大隈派の立憲国民党の大部分によって、立憲同志会(のちの憲政会)を結成した。
これにより、伊藤・西園寺系の立憲政友会、山縣・桂系の憲政会の2大政党と万年野党の犬養毅党首の立憲国民党が主要三党になった。
立憲政友会 | 憲政会 | 立憲国民党 |
原敬総裁 | 加藤高明総裁 | 犬養毅党首 |
板垣派 | 大隈派 | 大隈派 |
伊藤博文元首相 西園寺元首相 | 山縣有朋元首相 桂元首相 | |
海軍 | 陸軍 |
濱口政権へ
37年6月成立。
盧溝橋事件で不拡大方針表明も、日中戦争へ発展。
日独軍事同盟で陸軍の反発を受けて退陣。
平沼政権
39年1月成立。
アメリカが日米通商航海条約を破棄
8月、独ソ不可侵条約を受けて退陣。
45年8月 終戦
焦土と化した日本
60年代の日本経済は高度成長期である。45年には焦土と化した日本全土が、68年には世界第2位の経済大国になっていた。高度成長期の経済成長率は年10%以上であった。
日本が短期間に高度成長ができた要因として次のように考える。
- 高い貯蓄率が高い設備投資に繋がった。
- 高校大学への進学率も向上。豊富で良質な労働力が確保できた。
- 農地改革・労働の民主化により、国民所得が向上。消費水準が向上した。
5大改革
財閥解体
農地改革
労働の民主化
一方、重化学工業の発展は、公害問題へと繋がった。これが60年代後半から重要視し始める。
エネルギー革命で、石炭から石油へのシフトが起こる。
59年5月、西ドイツで開催されたIOC(国際オリンピック協会)総会で東京オリンピックの開催が決まった。アジア最初のオリンピックであり、60年のローマオリンピックについで敗戦国によるオリンピックの開催が決まった。
60年、池田首相は「国民所得倍増計画」を発表。70年までに所得を2倍にする計画であった。実際は、67年に計画目標を達成した。
経済復興
預金封鎖
傾斜生産方式
ドッジライン
- GATT11条国 63年 国際収支を理由に輸入の制限ができない。
- IMF8条国 63年 国際収支を理由に為替について制限ができない。
- OECD 64年 先進国の集まり
オリンピック不況
64年10月にオリンピックが終了すると、戦後初の大不況が起こる。
翌65年、大手鉄鋼会社の山陽特殊鉄鋼が倒産。大手証券会社の山一證券に日銀特融が行われた。この年の補正予算(66年1月)で、戦後初の赤字国債の発行が決定。66年には、建設国債の発行が恒常化した。
いざなぎ景気
65年10月、赤字国債の発行で景気は回復。70年7月まで続くいざなぎ景気に入った。
設備投資、輸出、個人消費がバランスよく拡大。これが長期の好景気に繋がった。
消費では、カラーテレビ、カー、クーラーと呼ばれる「3C」(新三種の神器)の普及が進んだ。
65年、日本は債務国から債権国になる。67年、所得倍増計画の達成。68年、GNPで西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になった。
この時期から、公害問題への問題が表面化。67年8月、公害対策基本法が制定される。
しかし、70年8月にニクソンショックが発生。急激な円高により、いざなぎ景気が終わる。
貿易摩擦へ
60年代、景気が良くなると輸入が増加。固定相場制の影響で、外貨準備が不足が発生。その度に、金融引き締めが行われて、不況になるようになっていた。
しかし、60年代なかばになると、輸出が増大。恒常的に経常黒字になった。65年には債権国になった。そのために、金融機締めが行われなくなった。これが、いざなぎ景気につながる。
外交)主権回復
吉田茂首相の親米外交
50年、朝鮮戦争が勃発。日本を含む東アジア全体に緊張が走る。51年、サンフランシスコ講和条約を締結。日本は主権を回復した。同年、日米安全保障条約を締結。アメリカ軍は引き続き日本に駐屯した。
鳩山一郎首相の独自外交
53年、国際情勢が大きく転換した。スターリンの死去である。
56年、ソ連と国交回復。国際連盟に加盟する。
岸信介首相と安保改定
岸首相は、日米安全保障条約の改定を実施。このとき、安保反対の学生運動が起こった。
文化)Always 三丁目の夕日の舞台
50年代の日本をよく表した映画が、「Always 三丁目の夕日」がある。
在日米軍によって、多くのアメリカ文化が日本に流入した。日本初のスーパーマーケットである紀伊國屋が開店。テレビの本放送が始まり、東京タワーもこの時期に完成した。映画ゴジラシリーズの第1回もこの時期に始まった。