1810年代の日本 化政バブルとイギリスの通商要求

前回の復習 1820年代の日本

 1820年代の日本は、江戸時代。3大改革の時代である。寛政の改革と天保の改革の間の時代である。将軍は、徳川家斉の時代。幕府の支出の拡大で、江戸は好景気に。これにより、化政文化が最盛期を迎える。

 一方で、外国船が頻繁に日本近海に現れるようになっていた。シーボルト事件が起きたのもこの時期である。幕府は、防衛のために異国船打払令を出した。

1810年代の国際情勢

 1810年代、ナポレオン戦争が終結。ウィーン体制が構築された。イギリスでは、産業革命の1つ、交通革命が始まった。蒸気船や蒸気機関車が登場した。

家斉の大御所時代

徳川家斉

 10年代は、11代将軍徳川家斉の時代である。1887年に即位し、37年に譲位するまで50年続いた。

 この時代は、4人の老中首座が登場する。

  • 松平定信 寛政の改革
  • 松平信明 寛政の改革の維持(大御所時代)
  • 水野忠成 財政拡大路線(大御所時代)
  • 水野忠邦 天保の改革への対応(大御所時代)

 この時代になると、将軍よりも老中首座によって政治の特色が出るようになる。

財政拡大 or 緊縮財政

 現在もある政治課題に財政規模である。令和時代で言えば、財政を拡大すべきか、緊縮財政にすべきかである。財政拡大の例は、アベノミクスである。国債残高は大きくなったが、株価も比例して大きくなった。一方、岸田政権は、逆で増税して国債残高を減らそうとしている。

 江戸時代後期にも、同じことが行われていた。財政拡大路線の代表は、田沼意次である。財政支出を拡大。商業の活性化に勤しんだ。緊縮財政の代表は、寛政の改革を実施した松平定信である。

 10年代は、松平定信の後継者である松平信明の時代である。緊縮財政が続いた。しかし、18年、松平信明が死去。財政拡大路線の水野忠成の時代になる。小判の金の含有量を減らして、小判の枚数をふやし、これを利用して、幕府や大奥の支出を増やしていった。これにより、江戸はバブル状態になった。

江戸時代後期の政治課題

外交

 この時代は、外国船が日本近海に現れるようになった時代である。なぜ、その様になったであろうか。

  • ロシアが東アジアに進出
  • イギリスは、東南アジアでオランダと戦争中
  • 産業革命で、北太平洋での捕鯨漁が盛んになる。

 幕府は、なぜ外国船に警戒したのであろうか。これはキリスト教の排除である。でも、真の目的は違う。

 1つ目は、貿易の独占である。長崎貿易の独占である。

 2つ目は、大名が外国勢力と結びついて幕府を転覆しようとすることを恐れたたまである。実際、江戸幕府は、イギリスと結びついた薩摩藩と長州藩によって倒れた。また、幕府がキリスト教を禁止したのも、キリスト教勢力による16世紀前半の島原の乱が要因である。また、インドでは、イギリスと現地勢力が結びついて植民地化された。

内憂

 幕府や大名の収入源は、領地の農民による農民からの年貢(税金)である。領内の農民がいなくなることは、死活問題である。

 18世紀後半に入ると、格差問題が発生した。その要因は生産コストの増加である。金肥などの高額肥料の増加や商品作物(綿花、菜種)などの商品が登場した。高額肥料や商品作物の種が買える一部の富裕層と買えない貧困層で格差が生じた。

 貧困層の農民は、農地を捨てて小作人になるものが多かった。しかし、東北や関東では江戸に流入するものが多くなった。これにより、江戸は人口が急増した。景気が良いときには職があるのでよいですが、インフラが加速した。また、景気が悪化すると失業者増加。犯罪の増加やホームレス(無宿者)の増加に繋がった。

 そのため、江戸などの都市部のインフレ対策や失業対策が政府の課題として上がってきた。

外国船の来航

ロシア、ゴローニン事件

 19世紀初頭、日本とロシアは緊張状態にあった。ロシアが択捉島と樺太へ侵攻した。幕府は、これを受けて松前奉行を設置。北海道(蝦夷地)を幕府直轄地にした。

 11年5月、国後島でロシアの軍艦が上陸。松前奉行は、艦長のゴローニンを拿捕した。

 副艦長は帰国。ロシア政府に日本遠征の許可を求めた。しかし、ロシア政府はこれを認めなかった。ナポレオン戦争の真っ只中にあったからである。前10年12月、ロシアは大陸封鎖令を破棄。事実上の宣戦布告である。実際、翌12年6月にナポレオンのロシア遠征が始まる。

 12年8月、ロシアが、日本人商人の高田屋嘉兵衛を拿捕。高田屋嘉兵衛は、幕府の事情に精通していた。これにより、日本がロシアに対して持っていた誤解を認識した。

 13年9月、ロシアは、択捉島、樺太の侵攻に対する詫び状を持参して日本へ訪問。高田屋嘉兵衛と引き換えに、ゴローニンを開放した。

 これにより、北海道の危機は回避。21年、賄賂と引き換えに蝦夷地は松前藩に返還された。

イギリスの通商要求

 ロシアの危機が終結すると、今度はイギリス船が来るようになる。

 15年、ウィーン議定書を締結。ヨーロッパのナポレオン戦争が終結した。

 16年、イギリス政府は、アマーストが清王朝へ向かう。このとき、イギリスは朝鮮や琉球にも貿易要求を行った。しかし、どの交渉も失敗した。当時、イギリスは、東南アジアでオランダと戦争状態であった。

 その後、イギリス船は東京湾(江戸湾)に頻繁に現れた。そのため、20年、東京湾の入り口に浦賀奉行を設置した。

文化)化政文化

杉田玄白の「蘭学事始」

 17世紀、蘭学の研究が盛んになっていた。

 11年、江戸幕府は、天文方の下に洋書翻訳の専門機関を設置した。

 15年、「解体新書」を発表した蘭学者の杉田玄白が「蘭学事始」を発表。これにより、蘭学ブームが起こる。

 23年の長崎にシーボルトが鳴滝塾を開校する。