前回の復習 1850年代の日本
53年、黒船が来航。ここから幕末が始まる。
黒船が来ても、幕府に信頼があれば、江戸幕府は続いていた可能性が高い。今回は、幕府が信頼を失っていく要因になった天保の改革を見ていく。
1840年代の国際情勢
イギリスは、清王朝にアヘン戦争で勝利。南京条約を締結。この戦争により、清王朝とヨーロッパの力関係は変わっていく。
このあと、フランスの二月革命をきっかけに、ヨーロッパの48年革命が起きていく。
江戸時代とは
江戸時代概論
江戸時代は、17世紀から19世紀なかばまで続いた。戦国時代と明治時代の間の時代である。1603年に、戦国時代の覇者徳川家康が征夷大将軍に任命されてから始まる。1868年、十五代将軍徳川慶喜が、大政奉還で政治を朝廷へ返還することで、江戸時代が終了した。
江戸時代は、大きく4つの時代に分けられる。
- 17世紀前半 武断政治 ①家康〜③家光
- 17世紀後半 文治政治 ④家綱〜⑦家継
- 18世紀から 三大改革の時代 ⑧吉宗〜
- 19世紀半ばから 幕末 黒船来航〜大政奉還
改革編
今回から三大改革の時代に入る。三大改革の時代は、3つの改革とその間の時代で構成される。この改革は、幕府の財政再建である。資金不足になった江戸幕府を以下に立て直していくかがこの時代である。
最後の天保の改革が終わった10年後に、黒船が来航する。幕末の始まりである。
- 1716年〜 徳川吉宗⑧の享保の改革
- 1772年〜 田沼意次の政治
- 1787年〜 松平定信の寛政の改革
- 1793年〜 徳川家斉⑪の大御所政治
- 1841年〜 水野忠邦の天保の改革
天保の改革
概要
天保の改革は、41年から43年にかけて行われた改革である。前将軍徳川家斉がなくなると、12代将軍家慶のもとで、老中水野忠邦のが実施した。
この改革は、失敗に終わり、幕府は、大きな批判を受ける。この10年後に黒船が来航。その15年後に江戸幕府は幕を閉じる。
大御所政治と天保の大飢饉
18世紀初頭は、大御所政治の時代である。11代将軍家斉の時代。
18世紀に入ると、農民の格差が拡大した。一部の富裕な農民と、貧しい農民に分裂していた。貧しい農民は、農村を捨て江戸(東京)や大坂(大阪)へ移住するようになった。
33年、天保の大飢饉が発生。
特に被害を受けたのは、江戸や大坂などの都市部であった。このこと、農村から移住者が多数存在した。天保の大飢饉で米価格が高騰すると生活に困窮した。大塩の乱は、困窮した大坂で起きた事件である。
老中首座水野忠邦
水野家は、三河の豪族の家系である。徳川家康の母の家系であった。2023年大河ドラマ「どうする家康」で寺島進氏が演じたのが、水野家の水野信元である。
水野忠邦は、肥前唐津藩水野家の藩主の家に生まれた。唐津藩は、貿易港長崎の防衛と有力外様大名肥前鍋島家の警戒の任務があった。そのため、水野忠邦氏は、西洋事情に精通していた。
17年に、肥前唐津藩(佐賀県)から遠江浜松藩(静岡県)に移封。石高は下がったが、この時期から幕府の要職につくようになる。28年、西の丸老中に就任。次期将軍家慶の補佐役になる。34年、老中に就任。37年、家慶が将軍に就任。39年、水野忠邦は、老中首座に就任した。ただ、当時は前将軍徳川家斉が健在。実権は前将軍が握り、将軍と老中はお飾りに過ぎなかった。
41年、前将軍家斉が死去。天保の改革が始まる。
天保の改革
天保の改革の対策は、2つである。インフレ対策(貧民対策)と財政再建である。
まずは、江戸の人口集中の是正である。人返しの法である。百姓(農民)の出稼ぎを禁止。江戸に流入した貧民の帰郷を矯正した。
次に行ったのが、株仲間の解散である。江戸の商品流通は、株仲間によって独占されていた。仕入れ価格と販売価格は株仲間の話し合いで決まっていた。幕府は、株仲間が不当に販売価格を引き上げていると考えた。
そこで、株仲間を解散させ、新興商人を参加させて価格競争によって物価を引き下げようとした。しかし、インフレの要因は物資の不足である。新規参入によって仕入れ価格で価格競争が発生。むしろ、インフレは加速した。
幕府は、棄捐令(きえんれい)を出し、札差(ふださし・当時の銀行)などに、低金利の貸出を命じた。現代でいう、金利規制法である。
遠山の金さん
財政再建のために、贅沢を禁止した。享保・寛政の改革にならい、倹約令を出す。ぜいたく品や華美な衣服を禁じた。さらに、庶民の風俗も規制の対象になった。
とくに、娯楽への規制は強化された。天保の改革で歌舞伎の廃止が検討された。ここに待ったをかけたのが、北町奉行の遠山金四郎景元であった。このあと、遠山金四郎景元を持ち上げる舞台を公演。これが昭和期の時代劇、遠山の金さんにつながる。
上知令で失脚
娯楽への規制とインフレ対策の失敗で、幕府への批判が高まった。
43年、幕府への威信を高めるために67年ぶり日光社参を実施。倹約令下の大出費で、大きな批判を受けた。
さらに、水野忠邦は、財政再建と防衛強化のために、江戸・大坂周辺50万石の地を直轄領にしようとするが、幕府内外の批判を浴び、水野忠邦は失脚した。
次に老中首座になったのは、ペリーと交渉を行う阿部正弘であった。
アヘン戦争
異国船打払令
19世紀に入ると、外国船が頻繁に日本近海に現れるようになった。
これを受けて、25年、江戸幕府は、異国船打払令を出した。外国船が日本沿岸に接近したら、砲撃して撃退することになった。
37年、モリソン号事件が発生。異国船打払令に批判が起きていた。
アヘン戦争
40年、イギリスは、清王朝に宣戦。アヘン戦争が勃発。43年、清王朝が降伏。南京条約を締結した。
薪水給与令
42年、水野忠邦は、異国船打払令を緩和。薪水給与令を出した。漂着船に対して、燃料と食料を与えて帰国してもらうことにした。これにより、無駄に外国を刺激せず、戦争リスクを減らそうとした。
高島秋帆が西洋砲術を指南
一方で、防衛策も展開した。印旛沼掘削工事を行った。これは、江戸湾が封鎖されたとしても、銚子から利根川を通じて物資が受け取るようにしたものである。しかし、この工事に入る前に水野忠邦は失脚。実現しなかった。
また、水野忠邦は、長崎から高島秋帆を長崎から呼び寄せる。高島修補は、幕府に西洋砲術を指南した。しかし、水野忠邦が失脚すると投獄される。21年大河ドラマ「青天を衝け」では、少年期の渋沢栄一が在任時代の高島秋帆に出会うシーンが描かれている。
黒船が来航すると、幕府に再び登用。お台場の建設で活躍した。
アメリカ2度目の来航
アメリカは、37年にモリソン号を派遣するも、異国船打払令によって撃退された。
46年、アメリカは再び使節を派遣した。ビットルが浦賀に来航。浦賀奉行が交渉に当たった。ピットルは、通商を要求したが、幕府はこれを拒否した。
53年、アメリカは、再び浦賀に向かう。これが黒船来航である。
朝廷と雄藩の台頭
藩政改革に成功した雄藩
天保の大飢饉は、幕府だけでなく各藩の財政も悪化させた。そのため、各藩は独自の経済政策を実施。いくつかの藩が財政再建に成功した。
薩摩(鹿児島)の島津家、長州(山口)の毛利家、肥前(佐賀)の鍋島家はその一例である。これらの藩は、幕末に大きな発言力を持つようになる。
朝廷と尊王攘夷
46年、孝明天皇が即位。明治天皇の父であり、前天皇である。祖父の光格天皇以降、朝廷の権威は高まっていた。幕府の失政もあり、尊王攘夷の考えが広まりつつあった。