1860年代の日本 幕末 大政奉還と明治新政府

前回の復習 1870年代の日本

 1868年、明治新政府が成立。ここから明治時代が始まる。今回は、江戸時代が終焉する過程を見ていく。

  • 1860年代 68年に大政奉還
  • 1870年代 廃藩置県と西南戦争
  • 1880年代 大日本帝国憲法制定
  • 1890年代 初期議会と日清戦争
  • 1900年代 日露戦争

1860年代の国際情勢

 アメリカで南北戦争が勃発。ヨーロッパでは、ドイツとイタリアが統一に向かっていく時代である。ヨーロッパは、フランス皇帝ナポレオン3世を中心に展開された。

政治① 幕末の江戸幕府

50年代の江戸幕府

 50年代後半の明治新政府は、3つの勢力に別れていた。幕府主流派の南紀派、幕府の反主流派の一橋派、そして、幕府に関与できない長州藩である。

 南紀派は、元々幕府の政治を担っていた譜代大名を中心とした人々である。中心人物は、大老の井伊直弼(譜代・彦根藩)である。譜代大名は、徳川家が三河の領主であった時代からの家来が中心である。23年大河ドラマ「どうする家康」で前半から登場している人は、井伊や大久保など、譜代大名と同じ苗字を持つ人が多い。

 一橋派は、幕末から幕府の政治に関与するようになった人々である。御三家の水戸藩や、最強の外様大名である薩摩藩(島津家)が中心である。

桜田門外の変

 60年、桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺。南紀派は、老中安藤信正を中心に政治を展開していく。

主流派の抵抗 公武合体

 南紀派が、最初に行ったのは朝廷との和解である。これが公武合体である。

 60年前後の朝廷と幕府の関係は、悪かった。その理由は、日米修好通商条約である。大老井伊直弼は、朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結したからである。

 南紀派は、孝明天皇(明治天皇の前の天皇)の妹である和宮を将軍家茂の妻に迎えた。

坂下門外の変

 和宮の結婚は、幕府内外の尊王攘夷論者から批判された。

 62年、老中安藤信正は、水戸藩の脱藩士に暗殺されそうになった。これは、桜田門外の変を受けて警備を強化した結果である。

 この事件を受けて、老中安藤信正は辞職した。この事件を坂下門外の変という。

一橋派と朝廷の連携

 このあと、動き出したのが一橋派の薩摩藩(島津家)である。島津久光(藩主の父)が京都へ行く。朝廷から勅使を報じて江戸に向かった。これを使って幕府の政治改革を行った。一橋派を中心とした人事が行われた。

  • 松平慶永(越前) 政事総裁職
  • 一橋慶喜(水戸) 将軍後見役
  • 松平容保(会津) 京都守護職

 ちなみに、松平容保が京都で結成したのが新選組である。

長州と公家の急進派

 一方、島津久光がいなくなった京都では、長州藩が三条実美・岩倉具視ら急進派の公家に接近。

 朝廷は、急進派の公家に動かされ、将軍を上洛させ、幕府に攘夷(外国勢力への徹底抗戦)を迫った。

 63年5月、幕府は諸藩に攘夷を結構するように命じた。

京都攻防戦 長州vs会津

 63年8月、幕府側の薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家とともに、政治の実権をにぎり、長州藩と三条実美ら急進派の公家を京都から追放した。これが八月十八日の政変である。

 翌64年、長州藩は、池田屋事件を契機に、京都に攻めのぼるが、会津・薩摩連合軍に敗退。(禁門の変、蛤御門の変)。

 幕府は、この事件を受けて、第1次長州征伐を行う。同じ頃、四国艦隊下関砲弾事件が発生。長州藩は、高杉晋作ら攘夷派を弾圧。幕府に恭順な態度を示した。

日米修好通商条約批准

 一方、日米修好通商条約は、批准(勅許)が取れずにいた。65年、イギリスなどの連合艦隊は京都に近い開港場の神戸おきに艦隊を派遣。朝廷は、ようやく勅許を出し、批准された。

 翌66年、幕府は関税の引き下げに合意した。

政治② 大政奉還

薩長同盟

 高杉晋作や木戸孝允らの攘夷派は、第一次長州征伐で追放された。しかし、64年末の功山寺挙兵からはじまるクーデターで恭順派を一掃。倒幕に回ったイギリスに接近し、大村益次郎らを中心に軍事力を高めた。

 また、土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介で、66年に薩長同盟が成立した。のちに、同じ土佐藩出身の板垣退助らが自由民権運動を展開させる際に、坂本龍馬らの活躍を利用した。本当の黒幕は、イギリスである。

 ただ、この時点で薩摩藩は勝ち馬に乗ろうと考えていた。第2次長州征討で長州藩が劣勢であれば、薩長同盟を反故にして幕府側に付き、幕府側が劣勢であれば、薩長同盟を利用して長州側につき倒幕に動くつもりでいた。これは、薩摩藩だけではない。朝廷も同じように考えていたものと思われる。

 幕府は、第1次長州征討を受けて、領地の削減を命じた。攘夷派政権の長州藩は、これを拒否。66年6月、第2次長州征討が始まる。幕府が劣勢。将軍家茂の死を理由に撤兵した。将軍後見役の一橋慶喜が十五代将軍についた。

 66年末、孝明天皇が死去。若き明治天皇が即位した。孝明天皇は、過激な倒幕を好まんでいなかった。そのため、過激な攘夷派は制止されていた。しかし、明治天皇になると、その静止がなくなった。

大政奉還

 67年、新将軍徳川慶喜は、フランスの援助の下、幕府の再建に取り組んだ。

 一方、薩摩藩は、長州藩とともに武力倒幕を決意。調停に倒幕の勅許を求めた。

 これに対抗したのが、土佐藩である。土佐藩は公武合体の立場を取った。藩士の後藤象二郎や元藩士の坂本龍馬らが、前藩主の山内容堂を通して、幕府に大政奉還を進言。薩摩藩らの武力倒幕に先んじて、政権を朝廷に返還する。その後、徳川家を中心とした雄藩連合政権を模索した。

 そして、10月14日、徳川慶喜は、大政奉還の上奏を朝廷に提出した。

 同じ14日、急進派公家の岩倉具視らと結んだ薩長両藩は、倒幕の密勅を手に入れた。しかし、大政奉還の上奏によって、無効になった。

王政復古の大号令

 12月9日、岩倉具視らが、薩摩藩らなどの武力を背景にクーデター。王政復古の大号令が出された。薩摩藩を中心とした新政府の樹立を宣言した。

 新政府は、将軍職の他、朝廷の摂政・関白を廃して、新たに、総裁・議定・参与の三職をおいた。参与には、薩摩藩などの有力諸藩を代表する藩士を任命。雄藩連合の形を取った。

 同時の夜、小御所会議を開催。徳川慶喜に内大臣の辞退と朝廷(新政府)への領地の一部返還を要求した(辞官納地)。

政治③ 戊辰戦争

京都編 鳥羽・伏見の戦い

 クーデターを受けて、徳川慶喜は京都(二条城)から大阪城へ引き上げた。薩摩藩は京都で幕府に挑発行為を繰り返した。これを受けて、翌68年1月、幕府軍は、大阪から京都へ進撃した。これが鳥羽・伏見の戦いである。幕府軍は敗北。大阪から軍艦で江戸へ戻った。

江戸編 江戸城無血開城

 朝廷は、徳川慶喜を朝敵として、薩摩藩・長州藩を中心とした東征軍を江戸に向かわせた。幕府側の勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛の交渉により、同68年4月、幕府は江戸城を無血開城した。この交渉の背後には、和宮(皇室)や篤姫(さつま)から東征軍への嘆願書がある。

 一部の過激派の幕臣は、江戸の上野に立てこもって抵抗したが、まもなく鎮圧された。(上野戦争)

会津藩 奥羽越列藩同盟

 松平容保の会津藩は、東北諸藩をまとめて奥羽越列藩同盟を結成。新政府軍に抵抗した。東征軍は奥羽越列藩同盟追討のため、東北へ進軍した。9月、白虎隊を破り、会津若松城を攻め落とした。

箱館編 五稜郭の戦い

 海軍副総裁の榎本武揚は、無血開城に抵抗。新政府軍に引き渡せる予定の幕府の艦隊を使って逃亡。抵抗軍を艦隊を使って支援した。ちなみに、元新選組の土方歳三は、榎本武揚に同行した。

 9月、会津若松城が陥落。これを受けて、10月に北海道(蝦夷地)へ逃亡。箱館(函館)の五稜郭を占領。徹底抗戦を取った。

 12月、イギリス・フランスの公使と交渉。自国民保護のため、旧幕府軍を事実上の政権であることを認めた書面を交わした。このため、榎本武揚の五稜郭軍は、蝦夷共和国と呼ばれることがある。

 翌69年5月、黒田清隆(さつま)率いる新政府軍が、五稜郭を攻める。五稜郭政府は降伏。これが箱館戦争である。

 榎本武揚は、自害しようとしたが、黒田らの説得で思いとどまる。以後、新政府軍の外交官として活躍。ロシアへわたり、千島樺太交換条約をまとめる。

 いっぽうで、新選組の土方歳三は、箱館戦争で戦死した。

 68年1月の鳥羽・伏見の戦いから69年5月の箱館戦争までの1年半の戦いを戊辰戦争という。

政治④ 明治新政府は廃藩置県へ

五箇条の御誓文

 戊辰戦争と並行して、明治新政府の準備を並行して行われた。

 68年1月、鳥羽・伏見の戦いと並行して、諸外国に対して王政復古と天皇の外交主権掌握を告げ、諸外国に明治新政府を承認させ、外交関係を整えた。

 3月、五箇条の御誓文を公布。公儀世論の尊重と開国和親などの新政府の基本政策を示した。このあと、東征軍の派遣が決定された。

 4月、江戸城無血開城

 閏4月、政体書を制定。国家権力を太政官と呼ばれる中央政府に集めた。アメリカ合衆国憲法をベースにした三権分立制を導入した。

東京遷都

 4月、江戸城無血開城

 7月、江戸を東京都と改称。

 8月、明治天皇の即位の礼を京都で実施。

 9月、年号を明治に改元。一世一元の制を採用。

 翌69年2月、京都から東京へ首都を移した。

版籍奉還

 戊辰戦争の進行とともに、明治新政府は旧幕府領(天領)を獲得。江戸や京都などの要所に府、その他の天領を県を配置した。一方で、大名の藩の統治は、江戸時代と同様とした。

 69年1月、木戸孝允(長州)・大久保利通(薩摩)らが画策して、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が朝廷への版籍奉還を出願。多くの藩もこれに追随した。(版は各藩の領地、籍は各藩の領民を指す)。全国の藩主が領地領民を天皇に返還し、明治新政府が全国を統治することになった。5月、戊辰戦争が終結。6月には、全藩主に版籍奉還を命じた。

 旧大名には、年貢収入の10分の1を家禄(給料)として支給。知藩事(地方長官)として藩政に当たらせた。形式上は新政府による中央集権体制になったが、事実上地方政治は、江戸時代同様の大名による政治体制になった。藩の債務などの財政は、明治新政府に移管したが、徴税と軍事は各藩に属した。

太政官制

 69年6月、政体書による太政官制を改める。祭政一致・天皇親政の方針から、飛鳥時代の律令制の形式を復活させた。

 天皇の下に、政治を司る太政官と神儀を司る神祇官を設置。太政官の下に、三院(正院・左院・右院)を設置。正院のしたに各省(大蔵省・兵部省など)が置かれた。

明治新政府の要人

 公家からは、三条実美や岩倉具視

 薩摩藩からは、西郷隆盛、大久保利通や黒田清隆

 長州藩からは、木戸孝允、伊藤博文、井上馨や山縣有朋

 土佐藩からは、板垣退助、後藤象二郎や佐佐木高行

 肥前藩からは、大隈重信、大木喬任、副島種臣、江藤新平

 彼らは、参議として政治を司るほか、各省のトップ(卿)やNo2(大輔)として行政を行った。

廃藩置県

 71年7月、廃藩置県を実施。徴税と軍事を中央政府に統合した。

開国インフレ(経済)

社会不安と世直し一揆

 ここでは、幕末の経済を見ていきます。日米和親条約が締結されると、物資は江戸ではなく開港場の横浜に流れるようになった。これにより、江戸は物資不足でインフレになった。これにより、社会不安が増大した。

 2回の長州征討の際には、都市部の東京や大阪で世直し一揆が起こった。

 地方では、民間宗教が生まれた。大和(奈良県)の天理教、備前(岡山県東部)の黒住教、備後(岡山県西部)の金光教が代表例である。

 また、伊勢神宮への御蔭参りが流行。67年には、東海・畿内で「ええじゃないか」の集団乱舞が発生した。

貿易赤字

 58年の日米修好通商条約に基づいて、翌59年から横浜・長崎・箱館(函館)で貿易が始まった。

 取引は、銀貨で行われた。

 圧倒的に輸入が超過した。

 南北戦争の影響で、主要な貿易国は、アメリカからイギリスに変わっていた。

 主要な輸出品は、生糸・茶・蚕卵紙(さんらんし)・海産物であった。

 主要な輸入品は、毛織物や綿織物など繊維工業品と鉄砲、艦船などの軍需品である。

幕府のインフレ抑制政策

 幕府は、江戸のインフレに対応するため、60年江戸五品廻送令を出した。日用必需品である雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の五品については、江戸の問屋を経て輸出するように命じた。これにより、在郷商人は直接外国商人と取引ができなくなった。ちなみに、江戸時代は茶は贅沢品とされたため、対象に含まれていない。

 在郷商人や列国はこれに反発。幕府が事実上撤回した。

 日本と外国で金銀比価が異なった。これにより、大量の金が流出した。<外国(1:15)、日本(1:3)>。このため、日本は金貨の品質(金の含有量)を大幅に引き下げた。(万延貨幣改鋳)

国内産業の変化

 江戸の時代の家内工業は、農村で行われた。綿糸や生糸の製造が行われた。

 開国により、輸出品である生糸の価格は高騰。一方で、外国産の安価な綿製品が輸入された。

 これにより、綿糸の製造から生糸の製造へ切り替える人々が増えた。

外交 攘夷運動

ウラジオストク

 幕末の日本は、存亡の危機が迫っていた。60年、清王朝がアロー戦争でヨーロッパ勢力に敗北。ロシアに日本海沿岸のウラジオストクを割譲した。

 これにより、新潟の対岸にロシアの艦隊がいる状態になった。

 また、58年大老井伊直弼は、日米通商修好条約を締結し、欧米との貿易が始まった。

薩摩 vs イギリス

 薩摩藩は、生麦事件を起こす。生麦事件とは、イギリス人が大名行列を横切ったために殺害した事件である。生麦(横浜市)は、開港地横浜の近郊で、東海道沿いの村である。日本人であればこれは当然のことであったが、これは外国人には通用しなかった。

 イギリスは、薩摩藩に対して、賠償金の支払いと殺害者の処罰を要求。薩摩藩はこれを拒否した。

 同63年、イギリス海軍は、鹿児島湾にイギリス艦隊を派兵。鹿児島は火の海になった。これにより、薩摩藩は攘夷が不可能であることを思い知らされた。

 一方で、イギリス海軍も薩摩藩の砲撃が被弾。これを受け、日本に対して慎重な対応を取るようになった。また、この戦争で、薩摩藩とイギリスは接近した。

長州 vs四カ国連合

 長州は、反幕府勢力の筆頭であり、最大の尊王攘夷勢力である。

 長州(山口県)には、下関がある。長崎から瀬戸内海を通って神戸に向かうには、下関(関門海峡)を通る必要がある。

 63年5月、幕府から攘夷が命じられると、下関で諸外国船を砲撃した。

 64年、幕府が第1次長州征伐を実施。これに合わせて、イギリスは、フランス・アメリカ・オランダと下関砲台を攻撃した。(四国艦隊下関砲撃事件)。薩英戦争での被弾を受けて、単独攻撃ではなく、連合軍を結成して攻撃することにした。

 翌65年、連合艦隊は、神戸沖に軍艦を派遣。朝廷は日米修好通商条約に勅許を出し、批准した。神戸は京都に一番近い開港場である。

 翌66年、幕府は改税約書に調印。貿易上の不平等は更に拡大した。

イギリス・新政府連合軍

 イギリス公使パークスは、一連の動きを見て、幕府の無力さを見抜いた。そのため、薩英戦争の結果を見て、薩摩藩に接近。天皇を中心とした雄藩連合政権を実現しようとした。

フランス・幕府連合軍

 一方、幕府に近い外国勢力は、反英のオランダとアメリカである。オランダは、ナポレオン戦争やベルギーの独立でかつての勢いはなくなっていた。また、アメリカは、南北戦争がはじまり、外国どころではなくなっていた。

 そのため、次のパートナーにえらんだのがフランスである。当時のフランスは、ナポレオン3世の第二帝政期。フランス公使ロッシュは幕府を支援した。

 67年、フランス皇帝ナポレオン3世は、パリ万国博覧会に日本の出展を行った。これに対し、イギリスは、パリ万国博覧会に薩摩藩を出展させた。

 翌68年に普仏戦争が勃発すると、幕府を支援する余裕はなくなっていた。

開国後の文化

西洋技術の取り入れ

 幕府は、江戸に蕃書調所(ばんしょしらべどころ)を設置。洋学の教授と外交文書の翻訳に当たらせた。講武所(こうぶしょ)で洋式砲術を教え、長崎製鉄所では蒸気船の製造修理を行った。

 60年、勝海舟が、日米修好通商条約の批准交換に際して、国産の蒸気船である咸臨丸で太平洋を横断した。

 幕府や薩摩・長州などの諸藩は、外国に留学生を派遣した。

 幕府は、フランスの顧問団を招いて、横須賀に造船所を建設した。