1880年代の日本 国会開設への道

前回の復習 1890年代の日本

 1890年代の日本は、明治時代である。日清戦争で清王朝に勝利。列強の仲間入りをした時代である。

  • 1860年代 68年に大政奉還
  • 1870年代 廃藩置県と西南戦争
  • 1880年代 大日本帝国憲法制定
  • 1890年代 初期議会と日清戦争
  • 1900年代 日露戦争

1880年代の国際情勢

 1880年代、ヨーロッパではビスマルクによって協調外交が展開されていた。そのため、ヨーロッパでは大きな戦争が起きていない。そのため、ヨーロッパ諸国は、軍事力を植民地拡大にむけていた。その中心は、アフリカ大陸であった。

政治)明治十四年の政変

北海道官有物払い下げ事件

 80年、元老院(立法の諮問機関)が憲法案を起草。しかし、岩倉具視右大臣らの保守派により、廃案になった。同じ頃、板垣退助らは、愛国社を中心とした国会期成同盟を結成。国会の早期開設をもとめる天皇宛の国会開設請願書を太政官と元老院に提出しようとしたが、受理しなかった。

 4月、明治政府は、集会条例を定めて、自由民権運動の活動を制限した。

 81年、北海道官有物払下げ事件が報じられる。

伊藤博文 vs 大隈重信

 当時の政治状況はどのよな状況であったであろうか。78年、大久保利通内務卿が暗殺される。次のトップに付いたのは、大隈大蔵卿であった。

 大隈重信は、肥前藩(佐賀)出身。薩長出身に比べ政府に味方が少なかった。一方で、大蔵卿の立場から、東京の財界人に太いパイプを持っていた。イギリス型の議会政治を取り入れ、味方を政治に取り入れようとした。

これに対抗したのが、長州閥の伊藤博文と公家出身の岩倉具視右大臣である。

大隈重信 罷免

 81年10月、大隈大蔵卿は、北海道官有物払下げ事件を新聞社にリークしたという疑惑で、罷免された。これが明治十四年の政変である。

 大隈前大蔵卿は、翌82年10月に早稲田に東京専門学校を創立。これがのちの早稲田大学である。

 また、都市部のインテリ層とともに立憲改進党を結党した。これがのちの進歩党である。

国会開設の勅諭

 81年10月、世論を沈静化するため、国会開設の勅諭をだし、10年以内に国会を開くことを約束し、憲法制定の基本方針を示した。

 伊藤博文らは、10年以内に憲法を制定し、国会を解説しなければならなくなった。その条件は以下の通りである。

  • 自由民権運動家らに政治を乗っ取られない
  • ロシアなどの強国に勝てる軍事力を持つ
  • 条約改正や外国からの資金調達のために外国政府の信頼を獲得する。

大日本帝国憲法と帝国議会

憲法の研究

 国会開設の勅諭が出ると、民間でも憲法案が作成された。福沢諭吉や植木枝盛、加藤弘之などが憲法案を作成した。

 政府は、伊藤博文をヨーロッパに派遣。憲法調査を開始した。ベルリン大学(ドイツ)のグナイスト、ウィーン大学(オーストリア)のシュタインのもとで勉強した。

 一方、日本国内では、憲法以外の法律の整備も行われた。

 80年、フランスをモデルに、刑法と刑事訴訟法を制定。これをベースに領事裁判権の撤廃を行おうとした。

華族制度

 84年、華族令を制定。公家と大名以外のものも華族になれるようになった。

内閣制度

 85年、太政官制を廃して、内閣制度を導入した。

  • 85年 伊藤博文内閣(長州)
  • 88年 黒田清隆内閣(薩摩)
  • 89年 山県有朋内閣(長州)

 大臣は、国会ではなく天皇に対して自省の任務について直接責任を持った。縦割り行政はこのときの名残である。

 宮中の事務を行う宮内省は、内閣の外に置かれ、宮内大臣は、初代内閣総理大臣の伊藤博文氏が兼任した。太政大臣であった三条実美は、内大臣に就任。天皇の印である玉璽を管理する仕事についた。また、宮中の者が政治に影響を与えないように、宮中府中の別が定められた。これが第一次護憲運動の引き金になった。

 地方行政は、88年、町村制、府県制を制定。90年、地方自治制度が確立した。

大日本帝国憲法

 86年、極秘裏に、伊藤博文らがドイツ人顧問を招いて憲法案を起草した。

 その後、憲法の審議を行う枢密院を設立。元老院ではなく枢密院で議論された。枢密院は、憲法制定後も、天皇の諮問機関として存続。緊急勅令などの審議が行われた。

 89年2月11日(建国記念の日)に大日本帝国憲法を公布した。

 大日本帝国憲法では、それぞれの機関が天皇に対して直接責任を負った。そのため、それぞれの独立性が高い。とくに軍部の独立性は強かった。

帝国議会

 帝国議会は、華族と勅選議員による貴族院と選挙で選ばれる衆議院で構成された。貴族院と衆議院は対等であった。

 帝国議会は、首相を選ぶことができないが、予算と法律は、帝国議会の同意を必要とした。

 90年、民法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法が制定。六法が揃った。これらは、86年の井上外交の条件でもあった。

自由民権運動

北海道官有物払下事件

 81年、

 北海道官有物払い下げ事件とは、北海道の官営の会社が赤字続きで撤退。安価で払い下げた。問題はその販売先である。薩摩出身で大阪で活躍している商人である五代友厚氏であった。

 これが新聞で報道されると、世論は怒り、自由民権運動が加速した。

板垣退助と自由党

 自由民権運動のとトップは、土佐(高知)出身の板垣退助であった。政治団体の愛国社には、元士族だけでなく、地主や商工業者も参加していた。

 80年、愛国社をベースにした国会期成同盟が結成された。早期に国会を解説を求めるものであった。

 4月、明治新政府は、集会条例を定めてこれを弾圧した。

 翌81年10月、板垣らは、自由党を結党した。

3つの政党

 81年10月、国会開設の勅諭が出されると、板垣退助氏を中心とした自由民権運動家らは、自由民権運動の自由を取り、自由党を結党した。自由党の支持基盤は、元士族の他、地方の地主層が自由党を支持した。フランス流の急進的な自由主義を目指した。主要メンバーは、明治維新で職を失った元士族である。当然、反政府的である。

 自由党は、のちに伊藤博文が結党した立憲政友会に合流。自由党は、戦後に復活。のちに民主党と合流して、現在の自由民主党(自民党)になる。

 これに対抗したのが、明治十四年の政変で政府を追放された大隈重信前大蔵卿である。大隈氏は、都市のインテリ層や財閥のトップと連携して、82年に立憲改進党を結党した。のちの進歩党である。

 伊藤博文ら政府側は、この2つの政党に対抗して、福地源一郎を党首とする立憲帝政党を82年に結党したが、翌83年に回答した。

松方デフレで過激化

 82年に、松方デフレが始まると、生活苦で多くの支持者が自由民権運動から手を引いた。一方で、生活苦で過激化するものが現れた。

 82年、集会条例を改正。政党の支部結成が禁止された。一方で、板垣退助の洋行などの懐柔策も取られた。

 過激化した自由党は、82年の福島事件、高田事件。84年の秩父事件を引き起こした。これらにより、自由党は解党した。立憲改進党も、大隈重信氏らが離党、事実上解党状態になった。

三大事件建白運動

 87年、井上外務大臣の条約改正失敗。これを受けて、三大事件建白運動が起こる。旧自由党と旧立憲改進党のメンバーが連結した。三大事件とは、以下の通り。

  • 地租の減免 松方デフレの影響を受けて米価が下落。これにより金納の地租の負担が急増した。
  • 集会・言論の自由 82年の集会条例改正に対する反発。
  • 外交失策の回復 井上外交の失敗

 87年12月、保安条例を制定。三大事件建白運動の沈静化のため、自由民権運動の活動家を東京から追放した。

経済)松方デフレ

インフレと財政難

 70年代後半、西南戦争の戦費調達のために不換紙幣を増発した。これを増長したのが76年の国立銀行条例である。これにより、民間銀行が不換紙幣を乱発した。これにより、激しいインフレが起こった。

 地租改正で、税金は現物農から紙幣による納税に変わった。インフレで農産物価格が高騰した影響で、事実上の減税メリットを享受した。ただ、このメリットを受けたのは、地券を持っている地主のみであった。小作人は農産物を地主に収めたのでこのメリットはなかった。

 一方、インフレによる事実上の減税で政府は財政難になっていた。

大隈財政と官有工場の売却

 80年、大隈重信が大蔵卿に就任。大隈大蔵卿は、酒造税などの増税を実施するとともに、官営工場の売却で財政を再建しようとした。

 官営工場は、三井や三菱などの巨大な資金を持つ政商に売却された。彼らは、官営工場の買い取りにより、政商から財閥へ転換していく。大隈大蔵卿は、この売却で財閥との親交を深めた。とくに三菱財閥との関係は特に深まった。

 このような中で起きたのが、北海道官有物払下げ事件である。

松方デフレ

 81年、明治十四年の政変で大隈大蔵卿が失脚。後任は、薩摩出身の松方正義大蔵卿である。松方大蔵卿は、増税とともに軍事費以外の歳出を削減した。歳入超過分は、不換紙幣の買い取りに使った。

日本銀行

 翌82年、国立銀行条例を改正。中央銀行である日本銀行を設立。日本銀行以外は紙幣を発行できなくなった。これにより、大幅に不換紙幣はへった。

銀本位制へ

 85年、松方氏によるデフレ政策で、紙幣の価値は高騰。銀本位制を開始した。

デフレの影響

 松方デフレで、農産物価格は下落。地租は事実上の増税になった。これにより、多く農民が農地を売却して小作農に転落した。

 小作農は、高い小作料に苦しんだ。そのため、子女を出稼ぎに出した。出稼ぎ先は繊維工場であった。これが日本のやすい労働力に繋がった。

 一方、地主層は、高い小作料で稼げるようになり、農業を行わない寄生地主化した。この資金は、貸金や酒屋などを営む他、工場などへ投資された。彼らが支持したのが自由党である。

 ただ、農産物価格の下落は、地租の負担を重くした。これが三大運動建白運動につながる。

大阪紡績会社

 82年、渋沢栄一は、大阪に大阪紡績会社を設立。現在の東洋紡である。

 明治初期の日本の経済界は、大阪に拠点を置く五代友厚と東京に拠点をおく渋沢栄一の二大巨頭に支えられた。しかし、五代友厚氏は、北海道官有物払下事件で失脚。渋沢栄一は、大阪に進出した。

 五代友厚氏は、薩摩藩の武士で、幕末は倒幕運動で活躍した。大河ドラマ「青天を衝け」の江戸時代編では、主人公渋沢栄一に罠を仕掛ける悪役として登場する。朝の連続テレビ小説「あさが来た」では、主人公あさを支える大阪経済界のトップとして登場する。ちなみに、どちらもディーン・フジオカが演じている。

 一方、渋沢栄一氏は、2021年には大河ドラマ「青天を衝け」の主人公になり、2024年から1万円札の肖像になる人物である。埼玉県深川の豪農の家に生まれ、幕末には武士として江戸幕府を支えた。明治大正昭和初期を駆け抜けた実業家である。

 大阪紡績会社を皮切りに、日本では綿糸の機械化が進んだ。

東海道本線開通

 

大凶作

 89年、大凶作が発生。これにあわせて、朝鮮が防穀令を制定。これにより、米価が高騰した。

外交)初期議会

朝鮮問題

 朝鮮は、開国派の閔妃政権の時代である。82年、保守派が大院君を担いでクーデター。日本公使館を包囲した。これを壬午軍乱という。このクーデターは、西太后が派遣した清王朝軍によって鎮圧された。この一件により、閔妃一族は日本ではなく、新王朝に接近した。

 84年、親日派の金玉均らがクーデター。日本公使館は、金玉均ら反政府側に、清王朝は、閔妃一族の政府側についた。翌85年、日清戦争を回避するために、伊藤博文が天津に向かう。漢人官僚李鴻章と交渉し、天津条約を締結。戦争を回避した。

 金玉均のクーデター失敗を受けて、福沢諭吉は「脱亜論」を発表した。

条約改正)井上外交に自由民権運動が反発

 70年代、岩倉使節団、寺島外務卿が条約改正に失敗。

 82年、井上外務卿が就任。86年から本格交渉を開始した。

 井上外相は、外国人の信用を高めるために、日比谷に鹿鳴館を建設。舞踏会を開催。鹿鳴館外交と呼ばれた。

 87年、条約改正案がまとまる。領事裁判権を撤廃するが、3つの条件がつけられた。1つ目は、日本国内を外国人に開放(内地雑居)すること。2つ目は、法律の整備である。3つ目は、外国人を被告とする裁判には過半数の外国人判事を採用するという条件がついた。

 各国は、この内容に合意していた。しかし、この内容が、新聞によって情報が漏洩すると、国民が反発。三大事件建白運動に繋がった。これにより、井上外相(85年の内閣制度により、外務卿から外務大臣に役職が変わる)は辞任した。

 この背景には、86年のノルマントン号事件がある。イギリス貨物船が沈没。イギリス人船員は無事であったが、日本人乗組員が死亡した。この裁判は、不平等条約に基づき、イギリス領事が裁判を行い、イギリスの船長は無罪となった。この判決に多くの日本人が怒りを覚えていた。

 あとを継いだのは、自由民権運動家に近い、大隈重信氏である。大隈外相は、個別交渉を開始した。ただ、条約改正の条件に大審院(最高裁判所)への外国人判事の任用があったことで反発を受ける。大隈外相は、反対派の狙撃を受けて負傷。大隈外相は辞任。黒田政権を崩壊し、山縣政権に変わる。