1910年代の日本 大正時代 大戦景気で沸く日本

前回の復習 1920年代の日本

 1970年代の日本の政治は、派閥政治の時代である。有名な政治家は田中首相である。景気は、石油危機をきっかけに安定成長期に入る。外交では、中国との国交正常化が成立した。

1910年代の国際情勢

 キューバ危機で核戦争の危機が起こるも回避。米ソは軍縮に向かっていく。65年、ベトナム戦争が始まると、世界各地で反戦運動が起こる。

軍事・外交)第1次世界大戦

10年ごとの戦争

 日本は、1890年代から1910年代まで、戦争に勝利し続けた。

戦争対戦国獲得
94年日清戦争清王朝(中国)台湾
04年日露戦争ロシア南満州
14年第一次世界大戦ドイツ山東半島

韓国併合

 09年、南満州のハルビンで伊藤博文元首相が暗殺される。

 翌10年8月、日本が韓国を併合。朝鮮総督府をおき、軍事・警察を用いて民族運動を弾圧。(武断政治)。一方で、朝鮮半島のインフラ整備がおこなれた。これにより、朝鮮半島は、日本の食料・原料の供給地になった。

辛亥革命で混乱する中国

 隣国の清王朝は、辛亥革命で滅亡。中華民国が建国。李鴻章の後継者である袁世凱が臨時大総統についた。

 問題は、清王朝が外国と結んだ条約がリセットされることになる。

第1次世界大戦

 14年、バルカン半島で起きたサラエボ事件をきっかけに、第1次世界対戦が勃発。

 日本は、日英同盟にもとづき、イギリス陣営について参戦。目的は、アジア・太平洋地域のドイツの権益を奪うことにあった。

 ドイツの勢力圏は、中国北部の山東半島と太平洋西部の南洋諸島である。

対華二十一か条の要求

 日本、中華民国袁世凱新政権に対して、山東半島の権益を継承するため「21か条の要求」を実施した。内容は、以下の通りである。

  • 第1項 山東半島のドイツの権益は、日本が継承する。
  • 第2項 清王朝が認めた遼東半島の権益は、袁世凱政権も追認。さらに期限の延長を実施。
  • 第3項 中華民国と日本で製鉄会社を共同経営する。
  • 第4項 袁世凱政権は、中国沿岸部の港湾・島嶼を外国に譲渡・貸与しない。
  • 第5項 中華民国に日本人顧問を置く。

 対華二十一か条の要求は、イギリス陣営のイギリス・フランス・ロシアとアメリカに事前に相談。ただし、植民地化に繋がる第5項は4カ国には秘密にしていた。

 袁世凱政権は、第5項を公表。日本は国際的非難を浴び、第5項は撤回した。

 5月4日、袁世凱政権は対華二十一か条の要求を受諾。中国民衆は、袁世凱政権を非難した。

 日本政府は、このあと、ヨーロッパ各国に根回しを実施した。翌16年、ロシアと第4次日露協約を締結。さらに、イギリスは、地中海派兵を条件に山東半島の権益の継承の容認した。

 17年4月、アメリカはイギリス陣営で参戦。11月、日本は、アメリカと石井・ランシング協定を締結。日本は、アメリカが99年に提示した門戸開放宣言を認めた。かわりに、アメリカは、日本に対して、ドイツの山東半島の権益の継承を約束した。 

ロシア革命とシベリア出兵

パリ講和会議

三一運動と五四運動

国際連盟の常任理事国

ワシントン会議

経済)大戦景気

大戦景気

 大戦により、日本は好景気になった。要因は以下の通りである。

  • 大戦により軍需品の需要が高まった。
  • 大戦により、南アジアや東南アジアでは、ヨーロッパからの輸入品がストップ。その代替になったのが日本からの輸入品であった。
  • 大戦により、アメリカが好景気に。アメリカ向けの生糸の輸出が増大した。この生糸はおもにストッキングに使われた。

 この時期伸びた主な産業は、造船業・海運業、鉄鋼業、石油化学工業、繊維業がある。

 この時期に、安い労働力を求めて、中国や韓国での工場建設が続いた。その中心は繊維業であった。

大戦成金

 この時期に伸びた産業の中心は、大資本が必要な重化学工業である。そのため、財閥の力が大きくなった。

 また、この時期に金持ちになった人は、成金(なりきん)と呼ばれた。

米騒動

 大戦景気によって、庶民は物価高に苦しんだ。

世界恐慌

 ちなみに岸首相の孫は、2012年から長期政権を成立させた安倍首相である。

政治)桂園時代から本格政党内閣へ

桂園時代

 00年代の日本政治は、桂園時代と呼ばれる。陸軍出身の桂太郎首相がと公家出身の西園寺公望首相が交互に政権を担った。

 桂太郎首相は、出身派閥の陸軍、貴族院が支持基盤であり、山縣有朋が支援していた。

 西園寺公望首相は、伊藤博文元首相から引き継いだ立憲政友会の総裁である。

伊藤博文暗殺

 09年、伊藤博文元首相が、南満州のハルビンで暗殺。元老の中枢は、山縣有朋元首相になった。

第2次西園寺政権 2個師団増設問題で退陣

 11年8月に成立。

 桂太郎首相は、日比谷焼き討ち事件を受けて、大隈立憲国民党に接近。これが、政党嫌いの山県元老との関係を悪化。西園寺政権が成立。桂前首相を天皇の側近である内大臣にし、宮中府中の別によって、政界に復帰できないようにした。

 このころ、中国では辛亥革命が発生。清王朝が滅亡した。

 12年7月、明治天皇が死去。大正天皇が即位。大正時代に入る。

 大正天皇の即位に伴って、天皇に関する研究が進む。その中で出てきたのは、天皇機関説である。東京帝国大学(現在の東京大学)教授の美濃部達吉教授が『憲法講話』で発表した。これが大正デモクラシーの学問的基盤になった。

 この頃、日本政府は財政危機を迎えていた。

 財政危機の要因は、3つあった。1つは貿易赤字である。産業革命が進む中、原材料の輸入が急増し、貿易赤字になっていた。2つ目は、朝鮮半島、台湾への大規模なインフラ投資である。3つ目は、戦費の増大である。日清戦争は多額の賠償金で戦費を回収していた。しかし、日露戦争では賠償金が獲得できず。多額の戦費の回収が必要になった。

 立憲政友会の支持基盤は、農村部である。そのため、立憲政友会の支持者は、自分の村に鉄道を敷くなどの財政のバラマキを要求した。また、資金面で支えていた富裕層は、減税を要求した。また、立憲政友会は、海軍関係者が多かった。そのため、海軍の予算も拡大した。

 そのなかで、陸軍は、辛亥革命を受けて13年度予算の増額を要求。西園寺政権は、これを拒否した。これが2個師団増設問題である。陸軍は、これに憤慨。上原勇作陸軍大臣が辞任。陸軍は陸軍大臣を出さなかった。これにより、軍部大臣現役武官制により、西園寺政権は退陣に追い込まれた。12年年末のことである。

第3次桂政権 第1次護憲運動で退陣

 12年12月に成立。

 山県元老は、後継の首相に桂内大臣を呼び戻した。宮中府中の別を破っての抜擢である。

 大隈派の立憲国民党から多くの議員を引き抜いて、立憲同志会を結成。

 野党である立憲政友会の尾崎行雄氏と多くの議員を引き抜かれた立憲国民党の犬養毅氏が第1次護憲運動を展開した。マスコミと野党議員が「閥族打破・憲政擁護」を唱えた。

 これにより、第3次桂政権は退陣した。

第1次山本権兵衛政権 海軍政権

 13年2月に第2次山本権兵衛政権が成立。日本海海戦(日露戦争)の海軍大臣である。支持基盤は、立憲政友会と海軍であった。

 第1次護憲運動を受けて、第2次山県政権で成立した2つの法律を緩和した。文官任用令と軍部大臣現役武官制の緩和である。予備役・後備役の大将・中将でも可能になった。

 しかし、海軍の汚職事件(シーメンス事件)で退陣。

第2次大隈重信政権 立憲同志会

 14年4月に成立。元老山縣有朋は、第2次大隈政権を整理打つ。大隈派で桂太郎元首相が設立した立憲同志会を支援して成立。

 立憲同志会は、総選挙で立憲政友会に勝利。陸軍の2講師団増設が実現した。

 外務大臣である加藤高明氏は、第一次世界大戦への参戦を決定。表向きの理由は、日英同盟の履行であるが、本来の目的は、アジア・太平洋地域にあるドイツの権益を奪うことにあった。加藤高明氏は、のちに党首になり第2次護憲運動で首相になる。

 ただ、山縣元老と大隈首相の対立におり、崩壊した。戦争中に政争で政権が交代するほど、日本は優位に展開していたことが現れている。

寺内正毅政権 米騒動で退陣

 16年10月に成立。この政権を成立させるために、立憲同志会は、少数政党を吸収し、憲政会を結成した。

 寺内正毅首相は、陸軍出身の政治家で、初代朝鮮総督に就任した。

 袁世凱政権に資金提供を実施。(西原借款)。これにより、袁世凱政権に対して資金面でプレッシャーを与えた。

 シベリア出兵を実施。

 米騒動で退陣。

原敬政権 立憲政友会

 18年9月に成立。はじめての本格的政党内閣である。

10年代の主要政党

 桂園時代、議会は板垣派と伊藤博文元首相が連携した立憲政友会と大隈派の立憲国民党の2大政党政党であった。

 桂首相が、西園寺首相率いる立憲政友会に対抗する新党を結成。大隈派の立憲国民党の大部分によって、立憲同志会(のちの憲政会)を結成した。

 これにより、伊藤・西園寺系の立憲政友会、山縣・桂系の憲政会の2大政党と万年野党の犬養毅党首の立憲国民党が主要三党になった。

立憲政友会憲政会立憲国民党
原敬総裁加藤高明総裁犬養毅党首
板垣派大隈派大隈派
伊藤博文元首相
西園寺元首相
山縣有朋元首相
桂元首相
海軍陸軍

濱口政権へ

 37年6月成立。

 盧溝橋事件で不拡大方針表明も、日中戦争へ発展。

 日独軍事同盟で陸軍の反発を受けて退陣。

平沼政権

 39年1月成立。

 アメリカが日米通商航海条約を破棄

 8月、独ソ不可侵条約を受けて退陣。

文化

学問 天皇機関説

 60年代の日本経済は高度成長期である。45年には焦土と化した日本全土が、68年には世界第2位の経済大国になっていた。高度成長期の経済成長率は年10%以上であった。

日本が短期間に高度成長ができた要因として次のように考える。

  • 高い貯蓄率が高い設備投資に繋がった。
  • 高校大学への進学率も向上。豊富で良質な労働力が確保できた。
  • 農地改革・労働の民主化により、国民所得が向上。消費水準が向上した。

5大改革

 財閥解体

 農地改革

 労働の民主化

 一方、重化学工業の発展は、公害問題へと繋がった。これが60年代後半から重要視し始める。

 エネルギー革命で、石炭から石油へのシフトが起こる。

 59年5月、西ドイツで開催されたIOC(国際オリンピック協会)総会で東京オリンピックの開催が決まった。アジア最初のオリンピックであり、60年のローマオリンピックについで敗戦国によるオリンピックの開催が決まった。

 60年、池田首相は「国民所得倍増計画」を発表。70年までに所得を2倍にする計画であった。実際は、67年に計画目標を達成した。

経済復興

 預金封鎖

 傾斜生産方式

 ドッジライン

  • GATT11条国 63年 国際収支を理由に輸入の制限ができない。
  • IMF8条国 63年 国際収支を理由に為替について制限ができない。
  • OECD 64年 先進国の集まり

オリンピック不況

 64年10月にオリンピックが終了すると、戦後初の大不況が起こる。

 翌65年、大手鉄鋼会社の山陽特殊鉄鋼が倒産。大手証券会社の山一證券に日銀特融が行われた。この年の補正予算(66年1月)で、戦後初の赤字国債の発行が決定。66年には、建設国債の発行が恒常化した。

いざなぎ景気

 65年10月、赤字国債の発行で景気は回復。70年7月まで続くいざなぎ景気に入った。

 設備投資、輸出、個人消費がバランスよく拡大。これが長期の好景気に繋がった。

 消費では、カラーテレビ、カー、クーラーと呼ばれる「3C」(新三種の神器)の普及が進んだ。

 65年、日本は債務国から債権国になる。67年、所得倍増計画の達成。68年、GNPで西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になった。

 この時期から、公害問題への問題が表面化。67年8月、公害対策基本法が制定される。

 しかし、70年8月にニクソンショックが発生。急激な円高により、いざなぎ景気が終わる。

貿易摩擦へ

 60年代、景気が良くなると輸入が増加。固定相場制の影響で、外貨準備が不足が発生。その度に、金融引き締めが行われて、不況になるようになっていた。

 しかし、60年代なかばになると、輸出が増大。恒常的に経常黒字になった。65年には債権国になった。そのために、金融機締めが行われなくなった。これが、いざなぎ景気につながる。

外交)主権回復

吉田茂首相の親米外交

 50年、朝鮮戦争が勃発。日本を含む東アジア全体に緊張が走る。51年、サンフランシスコ講和条約を締結。日本は主権を回復した。同年、日米安全保障条約を締結。アメリカ軍は引き続き日本に駐屯した。

鳩山一郎首相の独自外交

 53年、国際情勢が大きく転換した。スターリンの死去である。

 56年、ソ連と国交回復。国際連盟に加盟する。

岸信介首相と安保改定

 岸首相は、日米安全保障条約の改定を実施。このとき、安保反対の学生運動が起こった。

文化)Always 三丁目の夕日の舞台

 50年代の日本をよく表した映画が、「Always 三丁目の夕日」がある。

 在日米軍によって、多くのアメリカ文化が日本に流入した。日本初のスーパーマーケットである紀伊國屋が開店。テレビの本放送が始まり、東京タワーもこの時期に完成した。映画ゴジラシリーズの第1回もこの時期に始まった。