前回の復習 1940年代前半の日本
1940年代前半の日本は、太平洋戦争の真っ只中にあった。二中戦争をきっかけに、アメリカ・イギリスと戦争を開始。45年、8月に敗北した。
今回は、そのきっかけになった日中戦争への過程を、満州事変から見ていきます。
1930年代の国際情勢
1930年代は、戦間期の時代である。30年代の世界は、世界恐慌の真っ只中にあった。そのような中、登場したのが、ファシズムの代表であるヒトラー総統であった。
軍事・外交)満州事変でドイツ陣営へ
ロンドン海軍軍縮会議
概要
27年、国際連盟主催で海軍軍縮会議を開催。国際連盟の本部があるジュネーブで行われたので、ジュネーブ海軍軍縮会議と呼ばれる。しかし、この会議は決裂した。
29年、世界恐慌が勃発。国際金融がパニックになり、各国政府は資金調達が困難になった。そのため、軍事費の削減が急務になった。
30年、ロンドン海軍軍縮会議が開催。アメリカとイギリスの譲歩で締結された。日本の代表は、協調外交を展開する幣原外務大臣であった。
その後、条約反対派によって濱口首相が暗殺。第二次若槻礼次郎内閣が成立する。
統帥権干犯問題
ロンドン海軍軍縮条約は、軍部や野党(立憲政友会)などを中心に反対運動が展開されていた。彼らが持ち出したのは、「統帥権干犯問題」であり。
大日本帝国憲法では、軍隊を統帥権は、内閣では、天皇が持っている。それを輔弼(サポート)する組織が参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)である。
海軍軍縮条約は、これに反しているとしているというのが「統帥権干犯問題である。
しかし、実際は内閣の専権事項である。参謀本部と軍令部が実際に認められるのは、軍隊の作戦である。兵力量や人事は、内閣の下にある陸軍省と海軍省の管轄であり、軍事予算は、大蔵省が作成し、帝国議会で承認を受ける必要がある。
ロンドン海軍軍縮条約は、海軍の兵力量に関する事項なので、軍令部ではなく、海軍省の仕事になる。そのため、「統帥権の干犯」にはあたらない。
軍部は、なぜ政党政治が嫌いなのか?
ロンドン海軍軍縮条約で、軍部と政府の関係が悪化していた。しかし、そこには背景があった。
井上財政で軍事費が削減。さらに、軍隊の大部分は、農村部出身者が多い。当時は農村不況の時代。満足に食事ができないものも多かった。そのような中、政治家と財閥の汚職事件が報道。政府に反発を持つものが多かった。
満州事変で国際連盟脱退
柳条湖事件
31年9月、関東軍が南満州鉄道を爆破した。これを柳条湖事件という。関東軍は、この事件を中華民国の軍隊のせいにして、満洲で軍事行動を開始した。これが満州事変の始まりである。
若槻礼次郎首相は、英米との関係を考慮して、不拡大方針を出した。
しかし、関東軍は、これに従わず、戦線が拡大。ソ連の勢力圏であった満洲北部を制圧。満洲全土を制圧した。これにより、若槻政権が退陣。立憲政友会の犬養政権が成立した。
関東軍
関東軍は、日露戦争で獲得した遼東半島に駐屯している軍隊である。
当時は、井上財政の時代。緊縮財政で軍事費は削減傾向にあった。さらに、幣原協調外交の時代。親日の軍閥を支援していた。
上海事変 部隊は中国南部へ
日本は、満州事変から国際世論を牽制するために、事件を起こした。翌32年1月の上海事変である。
軍部は、中国人の日本人僧侶襲撃事件が発生。これによって、日本軍は、上海に出兵した。ただ、この中国人は、日本軍に買収されたという説もある。
満州国建国宣言
32年3月、関東軍は満州事変を正当化するために満洲国の建国を宣言。初代皇帝に清王朝最後の皇帝である溥儀をつけた。これにより、関東軍は満州人のために満州事変を起こしたというシナリオを作った。
当時の犬養政権は、満洲国を承認しなかった。
日満議定書
五一五事件が政党政治が終焉。9月、斎藤政権は満洲国を承認した。日本軍の満洲国の駐屯を認めた。
リットン報告書
10月、リットン報告書が国際連盟に提出された。
国際連盟は、第一次世界大戦後に成立した国際組織で、スイスのジュネーブに本部を置いていた。当時、国際連盟ではジュネーブ軍縮会議が行われていた。
調査報告では、満州事変は問題あるとしたが、日本の権益は認めるべきとされた。
松岡大使は、弁明演説。リットン調査報告書をベースに話がまとまる予定であった。
翌33年1月、日本軍は、熱河を征服。協調路線が壊された。
国際連盟脱退
2月、国際連盟は、日満議定書の破棄を求める勧告案を決議。松岡全権大使は、退席した。
また、ジュネーブ軍縮会議は決裂。このあと、軍縮交渉は行われず、第2次世界大戦へ向かっていく。
3月、日本政府は、国際連盟に脱退を通告した。
日中戦争
日独伊防共協定
経済)世界恐慌
20年代の日本経済
不況の時代 大正版失われた10年
20年代の日本は、不況にあえいでいた。大戦景気の反動で景気が低迷。その中で、関東大震災が発生。不況が加速した。
金本位制
当時の経済大国の証は、金本位制にあった。
金本位制は、自国通貨と金を一定の比率で交換を約束する制度である。国際的な信用が高まるが、通貨発行量を制限される。そのため、金融政策による景気対策ができない場合がある。
主要国は、第1次世界大戦で金本位制を停止していた。しかし、20年代に多くの国が金本位制を復活されていた。しかし、日本は、不況の影響で金本位制への復帰ができていなかった。
そのため、日本円の国際的信用が低下。貿易に支障が生じていた。そのため、貿易を主とする大企業は、政府に金解禁を求めていた。
世界恐慌
29年10月、ニューヨークの株価が大暴落。(ブラックサーズデー)。金融機関は資金を引き上げ。深刻な不況に入った。
井上財政と金解禁
高橋財政
ブロック経済で再び恐慌へ
岸政権の時代に安保(日米安全保障条約)が改正。岸政権は改正を実施したが、当時は安保反対デモが発生。これにより、岸政権が崩壊した。
ちなみに岸首相の孫は、2012年から長期政権を成立させた安倍首相である。
政治)政党政治から軍国主義
憲政の常道
立憲政友会と立憲民政党の二大政党制。
29年7月、立憲民政党の濱口政権が成立。幣原首相がロンドン海軍条約を締結。幣原の協調外交が展開された。しかし、軍部の反発で濱口首相は暗殺された。
31年4月、立憲民政党の第二次若槻政権。8月に満州事変が発生。幣原は戦線が拡大しないようにコントロールした。しかし、軍部は従わなかった。これにより、若槻政権は退陣した。
31年12月、立憲政友会の犬養政権。高橋蔵相が景気を回復。外交面では、強硬外交が展開。32年1月、上海事変がおこる。しかし、3月の満州国建国宣言に対して、承認を出さなかった。
五一五事件
32年5月、海軍の青年将校が犬養首相を暗殺。西園寺元老は、軍部の暴走を止めるため、海軍の穏健派である斎藤実首相を任命した。これにより、政党政治の時代が終わり、軍部に配慮した挙国一致内閣が続く。
当時の世論が、政党政治を嫌っていた。そのため、五一五事件を好意的に受け取った。また、青年将校の原型の嘆願書が多数出された。
斎藤政権
32年5月、斎藤政権が成立。挙国一致内閣、日満議定書で満州国を承認する。国際連盟を脱退。
岡田政権
二二六事件
廣田政権
二二六事件の終息後に成立。陸軍の反発で退陣。
林政権
37年1月成立。衆議院の支持を得られず、37年6月、衆議院を解散。これに敗北して退陣。
第1次近衛政権
37年6月成立。
盧溝橋事件で不拡大方針表明も、日中戦争へ発展。
日独軍事同盟で陸軍の反発を受けて退陣。
平沼政権
39年1月成立。
アメリカが日米通商航海条約を破棄
8月、独ソ不可侵条約を受けて退陣。