1940年代前半の日本 太平洋戦争でアメリカに敗北

前回の復習 1940年代後半の日本

 太平洋戦争に敗北した日本は、GHQの占領下にあった。GHQは、財閥解体など日本の弱体化と民主化を進めた。50年に朝鮮層が勃発すると、日本経済は高度成長期に入る。

1940年代前半の国際情勢

 1940年代前半は、第二次世界大戦の時代である。39年のポーランド分割で始まった。日本は、戦争回避の交渉を行っていたが、決裂。41年、アメリカ、イギリスに宣戦布告。

 45年、ドイツ、日本の降伏で集結する。

39年 第2次世界大戦の始まり

 39年1月平沼内閣が成立。平沼内閣の最初の難問は、ソ連との国境紛争であるノモンハン事件である。5月に、満洲国の日本軍とモンゴルのソ連軍が軍事衝突をした。8月、ソ連と交戦中の中、日本の同盟国であるドイツは、ソ連と独ソ不可侵条約を締結。翌9月に第二次世界大戦が始まる。平沼内閣は、独ソ不可侵条約を受けて8月に退陣した。

 日本と対立した国は、もう一カ国あった。アメリカである。アメリカは、日米通商航海条約を破棄した。

 39年8月、陸軍出身の阿部政権が成立。挙国一致内閣だが、政党の支持が低い。翌40年1月、米価が高騰。これがきっかけになり、退陣。

40年 ベトナム北部に進駐

 40年1月、海軍出身の米内政権が成立。このころ、ナチ党の影響を受けて、大政翼賛会運動が起こる。近衛元首相を総裁とした大政翼賛会が結成。

 3月、日本軍は中国に2つ目の傀儡政権を樹立した。南京に汪兆銘政権を樹立。重慶の蒋介石国民党政府との対決姿勢を鮮明にした。

 7月、第二次近衛政権が成立。「大東亜共栄圏」構想を示した。日本政府を中心としたアジア民族国家連合構想を示した。これが40年代後半の東南アジア諸国の独立運動につながる。

41年 日ソ中立条約と対米交渉

 第2次近衛政権の最大の課題は、アメリカとの和解と中国大陸の安全である。日米交渉を優位に進めるために、ヨーロッパ諸国との連携強化を進めた。9月、アメリカを仮想敵とした日独伊三国同盟が成立。フランスのヴィシー政権から北ベトナム(腹部仏領インドシナ)の進駐が認められた。翌41年4月、日ソ中立条約。ドイツとソ連をバックに付けた状態で、日米交渉を開始した。

 6月、アメリカは、蒋介石国民党政府への武器貸与法を発効。

 7月、日本は、御前会議で南進(東南アジアへの侵攻)を決定。ベトナム南部にも進駐。これにアメリカは激怒。アメリカとイギリスは、日本資産を凍結した。アメリカは、第2次近衛政権に対して、松岡外相の更迭を要求。松岡外相は、国際連盟脱退した時の外相である。日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結し、アメリカに脅威を与えていた。近衛政権は、総辞職して第3次近衛政権を成立。松岡外相を更迭した。

 8月、アメリカは、経済制裁を強化。日本への石油輸出を全面禁止。ABCDライン形成。(Aアメリカ、Bイギリス、C中国、Dオランダ<インドネシア>)。

 9月、軍人を中心に開戦を要求する人々が増加。御前会議で対米交渉の期限が10月とされた。

 10月、対米交渉失敗。第3次近衛政権は総辞職。軍隊の声を抑えるために東条英機前陸軍大臣による、東条政権が成立した。

41年12月 日本参戦

 41年10月、東條英機前陸相が首相に。11月、アメリカは、最後通牒であるハル=ノートを提示。日本軍がベトナム・中国(満洲を含む)から撤兵と、重慶の国民党政府の承認を要求した。

 41年12月、アメリカ・イギリスに宣戦布告。真珠湾攻撃とマレー海戦で勝利。

 その後、日本軍は連戦連勝。翌42年3月には東南アジアを完全に掌握した。

42年 ミッドウェー海戦に敗北

 転換点は42年6月である。ミッドウェー海戦で、日本海軍は多くの空母を失った。

 翌43年2月、ガダルカナル島の戦いで敗北。食料不足で2万人以上の死者を出した。3月には、アリューシャン列島から撤退した。

43年 大東亜会議とカイロ会議

 東條政権は起死回生の一手を打った。これが11月に東京で開催した大東亜会議である。東南アジアの主導者を東京にあつめて、日本の正当性を訴えた。

 アメリカとイギリスは、急遽、中国の蒋介石氏をカイロに招集。カイロ会議を開催した。ハル=ノートに下記の条項が追加された。

  • 14年(第一次世界大戦)以後に獲得した太平洋の領土の放棄。
  • 朝鮮の独立

 この条項がポツダム宣言にも引き継がれる。

 12月、学徒出陣が始まる。

44年、サイパン陥落と空襲

 44年7月、サイパン島陥落。アメリカは、日本本土への空襲が可能になった。これにより、東條政権が退陣。小磯政権が成立。

小磯政権は、アメリカ、イギリスと和平交渉を開始。少しでも有利に交渉をしようと戦争を激化。

 10月、日本軍、フィリピン沖海戦に敗北。11月、日本本土での空襲が始まる。これを受けて、神風特攻隊の出撃が始まる。

45年 東京大空襲と沖縄戦

 45年2月、クリミア半島のヤルタで、ヤルタ会談を開催。秘密協定でソ連の対日参戦が決まる。アジアを諦めたイギリスのチャーチル首相はこれに反発していたが、アメリカのF=ローズヴェルト大統領は、これを歓迎した。

 45年3月、沖縄戦。東京大空襲。

 4月、小磯首相が退陣。鈴木政権が成立。鈴木首相は、ソ連を通じて講和工作を実施。同じ頃、ソ連は、ベルリン包囲。

 5月、ドイツ降伏。

45年8月 終戦

 7月、英米ソがベルリン郊外のボツダムで、米英ソの首脳会談を開催。ヤルタ秘密協定に基づき、8月のソ連参戦が秘密裏で決定した。

 その後、アメリカは、イギリスと中華民国(蒋介石国民党政府)の連名でポツダム宣言を発表。カイロ宣言をベースに作成された日本との和解条件である。鈴木首相は、即時に回答しなかった。

 アメリカは、ソ連参戦前の講和をのぞんでいた。そのあせりが、8月6日に広島原爆投下に繋がった。

 8日、ポツダムでの秘密協定にもとづきソ連が参戦。

 9日、長崎原爆投下

 14日ポツダム宣言受諾。15日、玉音放送で日本国民に敗戦が告げられた。

 ポツダム宣言を受諾すると、鈴木政権は大臣。挙国一致体制を組むため、皇族内閣を発足させた。東久邇宮内閣でである。

 9月、ミズリー号で降伏文書に署名。