前回の復習 1960年代の日本
1960年代の日本は、高度成長期の時代である。年平均10%を超える経済成長を続け、東京オリンピックが建国された。この高度成長は、自民党の長期政権を支えた。池田首相、佐藤首相の時代である。
1950年代の国際情勢
1950年代は、第三世界が台頭した時代である。朝鮮戦争、インドシナ戦争の影響で、アジアで多くの国が独立した。第2次中東戦争でエジプトが勝利。これが60年のアフリカの年につながる。
政治)自由民主党の成立
50年代の日本政治
50年代前半の日本政治は、吉田茂氏が率いる自由党と鳩山一郎率いる民主党が争っていた。55年に、この2つの政党が合併。現在も続く自由民主党が成立した。しかし、旧自民党と旧民主党の抗争は続く。これが表面化するのが70年代の派閥政治の時代である。
50年時点の政治状況
戦後の政党は、保守系と革新系に区別される。保守系政党では、自由党(民主自由党)、民主党、国民協同党があり、革新政党では、日本社会党と日本共産党がある。自由党政権と民主党・国民協同党・日本社会党の三党連立政権が戦後政権を争っていた。
吉田政権
48年10月、選挙に勝利した自由党が勝利。吉田政権が成立した。
50年3月、民主党の一部議員が吉田自由党に合流。民主自由党から自由党に名称を変更した。多くの議員を失った民主党は、国民協同党に合流。国民民主党が結成された。ちなみに、国民民主党は52年に改進党に改称。54年に鳩山民主党に合流する。
50年6月、朝鮮戦争が勃発。GHQはレッドバージを指令。多くの共産党員が公職追放された。これは民間企業にも広がった。これを受けて、共産党ではソ連派と反ソ連派で内紛が起こる。同50年8月に、自衛隊の前身である警察予備隊が結成される。
51年9月、サンフランシスコ講和条約を締結。主権を回復。日米安全保障条約を締結。主権回復後もアメリカ軍は日本に駐屯した。この講和条約をめぐり、社会党が分裂する。
52年、警察予備隊が保安隊に改編。台湾(蒋介石国民党政府)と講和。52年4月、公職追放が完全解除。三井、三菱などの財閥商号も利用可能に。52年10月の総選挙で鳩山一郎ら公職追放解除者が政界に復帰。
53年3月、バカヤロー解散。鳩山一郎らが離脱。吉田自由党と鳩山自由党に分裂する。吉田自由党には、官僚出身者が多いことから、官僚派と呼ばれ、鳩山自由党は、戦前からの政治家が多いため、党人派と呼ばれた。
54年、保安隊が自衛隊に改編。しかし、造船疑獄事件で退陣した。造船疑獄事件とは、造船業にかかる贈収賄事件である。この時期、第五福竜丸被爆事故が発生。MSA(日米相互防衛)協定が調印された。これらも、吉田自由党の支持を低下させた。
鳩山政権
54年11月、鳩山自由党は、改進党(52年に国民民主党から改称)と合流。日本民主党を結成した。翌12月に鳩山政権が成立する。
55年、自民党が成立。
56年10月、日ソ共同宣言。12月に国際連盟に加盟する。国際連盟の加盟を果たすと、石橋湛山氏に首相の地位を譲る。
55年体制
55年7月、共産党の内紛が終わる。10月、社会党右派と社会党左派が合流。これに対抗するため、11月、鳩山首相率いる民主党は、吉田前首相の自由党と合流。自由民主党が結成された。
石橋政権
56年12月、石橋政権が成立。ただ、翌57年2月に体調不良で退陣。岸信介首相が誕生する。
岸首相と安保改定
岸政権が成立すると、なべ底不況に突入した。公定歩合の引き下げで、1年で岩戸景気に入った。
59年、日米安全保障条約の改定交渉が始まる。これをきっかけに安保闘争が始まる。翌60年6月、新日米安全保障条約が批准される。岸首相は、新安保が批准されると退陣。吉田派の池田政権が成立する。
59年5月東京オリンピック誘致に成功。60年10月、浅沼社会党書記長刺殺事件が発生した。
経済)朝鮮戦争と高度成長
高度成長期
50年代の日本経済は高度成長期にはいった。45年には焦土と化した日本全土が、68年には世界第2位の経済大国になっていた。高度成長期の経済成長率は年10%以上であった。
日本が短期間に高度成長ができた要因として次のように考える。
- 高い貯蓄率が高い設備投資に繋がった。
- 高校大学への進学率も向上。豊富で良質な労働力が確保できた。
- 農地改革・労働の民主化により、国民所得が向上。消費水準が向上した。
朝鮮特需
50年、日本はドッジラインによる不況下にあった。
50年6月、朝鮮戦争が勃発。軍需物資が日本企業に発注された。これにより、日本経済は、好景気に湧いた。これにより、日本は、多くの外貨を獲得。生産が増大した。とくに繊維業は好景気になった。
労働の民主化により、生産の拡大は所得の拡大につながり、消費が拡大した。
51年7月、日本航空が設立。
神武景気と三種の神器
神武景気は、54年11月から57年6月まで続いた好景気。日本は高度成長期が始まった。
造船、鉄鋼などの重化学工業を中心に設備投資が進んだ。さらに、所得の拡大により、消費が増加した。特に、白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機の三種の神器が売れた。
56年の経済白書では、「もはや戦後ではない」と記載された。
なべ底不況
57年7月から58年5月までの約1年にわたり不況に入った。
この不況の原因は、固定相場制にあった。景気の拡大により、外貨が不足。金融引き締めに入ったためであった。
57年には、長期に渡る深刻な不況になると予測された。日本銀行は、公定歩合を引き下げた。国内の高い購買力の影響で1年で景気が回復された。この時期、田中郵政大臣は、全国各地のテレビ局に放送免許を与えた。これが白黒テレビの普及に繋がった。
岩戸景気
岩戸景気は、58年6月から61年12月まで31ヶ月続いた。
牽引役は、トヨタなどの自動車産業であった。エネルギー革命も起こり、石炭から石油へのシフトが進んだ。この時期に、多くの炭鉱が閉山した。三池炭鉱争議もこの時期に起こった。
外交)主権回復
朝鮮戦争
49年11月、中華人民共和国が建国。東アジアにも共産化の危機が発生した。翌50年6月、北朝鮮が韓国へ侵攻。これにより、朝鮮戦争が勃発した。翌51年4月、朝鮮戦争の方針をめぐり、マッカーサーがGHQ総司令官を解任させられる。51年7月、板門店会談で朝鮮戦争は休戦。
吉田茂首相の親米外交
51年9月、サンフランシスコ講和条約を締結。日本は主権を回復した。同年、日米安全保障条約を締結。アメリカ軍は引き続き日本に駐屯した。
サンフランシスコ講和会議では、中国の参加国をめぐり、米ソが対立。北京の共産党政府も台湾の国民党政府も参加しなかった。また、ソ連は調印せず。アメリカなどの西側諸国とのみの講和になった。
51年4月、サンフランシスコ講和条約が発効。台湾国民党政府と講和が成立。
53年12月、奄美諸島が日本に返還。
鳩山一郎首相の独自外交
53年、国際情勢が大きく転換した。スターリンの死去である。
56年、ソ連と国交回復。常任理事国5カ国との講和が成立。国際連盟に加盟する。
岸信介首相と安保改定
岸首相は、日米安全保障条約の改定を実施。このとき、安保反対の学生運動が起こった。
文化)Always 三丁目の夕日の舞台
スーパーマーケット開業
50年代の日本をよく表した映画が、「Always 三丁目の夕日」がある。
在日米軍によって、多くのアメリカ文化が日本に流入した。日本初のスーパーマーケットである紀ノ国屋が開店。テレビの本放送が始まり、東京タワーもこの時期に完成した。映画ゴジラシリーズの第1回もこの時期に始まった。
映画)黒沢明監督の『七人の侍』
51年、ベネチア映画祭で黒澤明監督の『羅生門』がグランプリを受賞。黒澤明監督は、54年に『七人の侍』を発表した。同54年、『ゴジラシリーズ』が始まる。ゴジラは、原爆の影響で誕生したという設定であった。同年3月の第五福竜丸被爆事故の異影響で不幸にもよりリアルなものになってしまった。54年、洋画では、オードリヘップバーンの『ローマの休日』も公開された。
テレビ放送開始と東京タワー完成
51年、NHKラジオで「紅白歌合戦」が始まる。翌52年、ラジオドラマ『君の名は』が流行。
53年2月、NHKがテレビ放送を開始。同年8月、日本テレビが開局。街頭テレビに人が溢れた。55年、TBSが開局。56年、大阪(朝日放送)、名古屋(CBC)でテレビ放送を開始。57年、田中角栄郵政大臣によって、新聞社ーキー局ーネット曲の体制が構築された。これにより、全国各地にテレビ局が開局した。58年、フジテレビとテレビ朝日が開局。ちなみに、テレビ東京が開局したのは73年のことである。同58年12月、電波塔の東京タワーが完成。59年4月の皇太子ご成婚で白黒テレビの普及率が高まった。