1960年代の日本 佐藤首相と東京オリンピック

前回の復習 1970年代の日本

 1970年代の日本の政治は、派閥政治の時代である。有名な政治家は田中首相である。景気は、石油危機をきっかけに安定成長期に入る。外交では、中国との国交正常化が成立した。

1960年代の国際情勢

 キューバ危機で核戦争の危機が起こるも回避。米ソは軍縮に向かっていく。65年、ベトナム戦争が始まると、世界各地で反戦運動が起こる。

政治)安保から経済政策へ

60年代の日本政治

 60年代、佐藤長期政権の時代である。岸首相(安倍首相の祖父)が安保闘争で退陣。池田首相は、所得倍増計画を発表。高度成長期と合わさって、自民党の指示は拡大した。体調不良で退陣。佐藤政権が成立した。

岸首相と安保闘争

 岸政権の時代に安保(日米安全保障条約)が改正。岸政権は改正を実施したが、当時は安保反対デモが発生。これにより、岸政権が崩壊した。

 ちなみに岸首相の孫は、2012年から長期政権を成立させた安倍首相である。

池田首相の所得倍増計画

 60年12月、吉田派の池田首相が誕生した。池田首相は、「国民所得倍増計画」を発表する。好景気を背景に高い支持を集めた。

佐藤政権

 池田首相は、高い支持を集めつつも64年に病に倒れる。東京オリンピックは病室で見ることになった。

 池田首相の跡を継いだのが、同じ吉田派の佐藤政権が成立した。

 沖縄返還交渉の際に、沖縄県内の米軍基地の存続が問題になった。その過程で発表されたのが「非核三原則」です。佐藤首相は「非核三原則」によってノーベル平和賞を受賞した。

派閥政治の時代へ

 自民党は、吉田茂首相が率いる自由党と鳩山一郎が率いる民主党が合併して成立した。60年代の自民党はまだその対立が続いていた。岸首相は鳩山派の人物であり、池田首相や佐藤首相は吉田派である。鳩山派の主流は、70年代に福田派になる。一方、吉田派は、池田首相の系列の大平派と佐藤首相の系列の田中派になる。

 佐藤首相は、田中氏と福田氏を後継者候補として、要職に就けた。佐藤首相は後継者として福田氏を指名した。しかし、田中氏はクーデターを実施。70年代の角福戦争につながる。

経済)高度成長と東京オリンピック

高度成長期

 60年代の日本経済は高度成長期である。45年には焦土と化した日本全土が、68年には世界第2位の経済大国になっていた。高度成長期の経済成長率は年10%以上であった。

日本が短期間に高度成長ができた要因として次のように考える。

  • 高い貯蓄率が高い設備投資に繋がった。
  • 高校大学への進学率も向上。豊富で良質な労働力が確保できた。
  • 農地改革・労働の民主化により、国民所得が向上。消費水準が向上した。

岩戸景気と所得倍増計画

 岩戸景気は、58年から61年まで続く好景気の期間である。

 重化学工業や自動車産業への設備投資が後継機の要因であった。経済白書には「投資が投資を呼ぶ」と表現された。

 一方、重化学工業の発展は、公害問題へと繋がった。これが60年代後半から重要視し始める。

 エネルギー革命で、石炭から石油へのシフトが起こる。

 59年5月、西ドイツで開催されたIOC(国際オリンピック協会)総会で東京オリンピックの開催が決まった。アジア最初のオリンピックであり、60年のローマオリンピックについで敗戦国によるオリンピックの開催が決まった。

 60年、池田首相は「国民所得倍増計画」を発表。70年までに所得を2倍にする計画であった。実際は、67年に計画目標を達成した。

オリンピック景気

 62年に入ると、岩戸景気がおわる。しかし、10月に入ると、オリンピック景気が始まる。これは、オリンピックが開催される64年10月までの24ヶ月づいた。

 オリンピック景気の要因は、オリンピック関連の建設需要であった。64年には東海道新幹線も開通。

 この時期、日本は先進国の仲間入りを果たした。

  • GATT11条国 63年 国際収支を理由に輸入の制限ができない。
  • IMF8条国 63年 国際収支を理由に為替について制限ができない。
  • OECD 64年 先進国の集まり

オリンピック不況

 64年10月にオリンピックが終了すると、戦後初の大不況が起こる。

 翌65年、大手鉄鋼会社の山陽特殊鉄鋼が倒産。大手証券会社の山一證券に日銀特融が行われた。この年の補正予算(66年1月)で、戦後初の赤字国債の発行が決定。66年には、建設国債の発行が恒常化した。

いざなぎ景気

 65年10月、赤字国債の発行で景気は回復。70年7月まで続くいざなぎ景気に入った。

 設備投資、輸出、個人消費がバランスよく拡大。これが長期の好景気に繋がった。

 消費では、カラーテレビ、カー、クーラーと呼ばれる「3C」(新三種の神器)の普及が進んだ。

 65年、日本は債務国から債権国になる。67年、所得倍増計画の達成。68年、GNPで西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になった。

 この時期から、公害問題への問題が表面化。67年8月、公害対策基本法が制定される。

 しかし、70年8月にニクソンショックが発生。急激な円高により、いざなぎ景気が終わる。

貿易摩擦へ

 60年代、景気が良くなると輸入が増加。固定相場制の影響で、外貨準備が不足が発生。その度に、金融引き締めが行われて、不況になるようになっていた。

 しかし、60年代なかばになると、輸出が増大。恒常的に経常黒字になった。65年には債権国になった。そのために、金融機締めが行われなくなった。これが、いざなぎ景気につながる。

外交)日韓国交正常化

日韓基本条約

 65年、ベトナム戦争が勃発。これにより、米軍は朝鮮半島に軍隊を回す余裕がなくなった。

 そのため、日本と韓国の国交正常化が必要になった。それで無結ばれたの65年に日韓基本条約である。当時の政権ば、日本は佐藤政権であり、韓国は朴政権の時代である。

 このとき、賠償金のかわりにODAを実施。朴政権の開発独裁を支える重要な資本になった。ヒュンダイやサムスン、ロッテなどの韓国財閥はこの時代に成立する。

 ODAの根拠になったのは、日韓賠償金協定である。この交渉過程で、従軍慰安婦問題や徴用工などの個人の賠償が含まれるとされた。しかし、これは協定の中では明文化しなかった。これが、91年に表面化した従軍慰安婦問題で顕在化した。

沖縄返還交渉

 68年4月、小笠原諸島が返還される。同年11月、共和党のニクソン大統領候補が大統領選に勝利。翌69年11月、佐藤ニクソン会談で沖縄返還が決まる。

 当時のアメリカは、65年に始まったベトナム戦争で苦戦をしていた。68年に入ると、アメリカでは反戦運動が激化。このために日本の協力が必要になった。

 日本は、65年に

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