1840年代のポーランド
19世紀のポーランドは、独立運動が展開されて板敷きである。18世紀後半のポーランド分割からが脱却することが重要であった。しかし、これが実現したのは20世紀前半の第1次世界大戦後のことであった。
40年代のポーランドの独立運動は、南部が中心であった。クラフトの反乱である。
この反乱は、オーストリアでウィーン3月革命(48年革命)が起きると加速した。
今回1830年代編は、30年の七月革命をうけた
1830年代の国際情勢
日本は、江戸時代。天保の大飢饉で化成バブルが崩壊。物価高騰による打ちこわしが都市部を中心に起こる。大阪で大塩平八郎の乱が起きたのもこの頃である。
中国は、清王朝の後期。三大皇帝の時代が終わり、衰退期に入っていた。中国南部ではアヘン中毒者が急増していた。
ヨーロッパでは、エジプト=トルコ戦争が展開されていた。
30年の独立運動
30年11月、ポーランドでロシアに対する独立運動が展開された。
11月、ポーランドの士官学校で体罰をしようとした共感に対して生徒たちが抵抗。反乱が始まった。
反乱軍は、宮殿を襲撃。ロシアのポーランド総督は宮殿を脱出した。
翌31年1月、ポーランド議会で急進派政権が成立。議会で独立を決議。2月、ロシア軍が軍事介入。4月、急進派政権が独立宣言を発表。9月、ロシア軍がワルシャワを制圧。反乱は鎮圧した。
20年代のポーランド
ポーランドは、独立国であった。しかし、ロシア皇帝ニコライ2世がポーランド国王を兼任していた。皇帝の兄がポーランド総督としてポーランドに派遣。ワルシャワの宮殿で政治をおこなっていた。この宮殿が30年11月に反乱軍の襲撃を受ける。
ただ、自治は認められており、ポーランド議会(国会)も存在した。
きっかけ)フランス七月革命
きっかけは、30年におきたフランス七月革命である。
フランスで七月革命が発生。反動政治を行っていたブルボン朝が崩壊。立憲王政(七月王政)へ移行した。
日本では、天保の大飢饉が起きていた頃である。そのため、経済はあまり良くなかった。そのため、七月革命は各地へ波及した。
成功した革命
- ベルギー独立運動 → オランダから独立
- イギリスのチャーチスト運動 → 第1回選挙法改正
失敗した革命
周辺国の対応
ポーランド分割に参加したプロイセン(ドイツ)とオーストリアは、革命が自国へ波及するのをおそれ、ロシアを支援した。
一方で、フランスからは義勇軍が派遣され、民間レベルで武器の影響が行われた。
ポーランド反乱軍 | ロシア鎮圧軍 |
フランス義勇軍 | プロイセン(ドイツ) オーストリア |
その後)反動政治
9月、ワルシャワ陥落。1万5千人のポーランド人がフランスへ亡命した。
ニコライ2世は、反動政治を実施。ポーランドを事実上の属州にし、ロシア化政策を勧めた。
ショパン『革命』
30年のポーランドの独立運動で象徴的な人物がいる。音楽家のショパンである。
ショパンは、ポーランド出身の音楽家である。30年11月の反乱が発生時には、ウィーンで演奏会を行っていた。反乱が始まると、帰国しようとしたが父に止められ、ウィーンに滞在した。
7月、ロシア陣営のオーストリアのウィーンから、フランスのパリに拠点を移した。その道中で、ワルシャワ陥落のニュースを聞く。
その後、パリで発表されたのが『革命』である。