1840年代のポーランド 48年革命とクラフト反乱

1850年代のポーランド

 19世紀のポーランドは、独立運動の歴史である。事実上ロシアの支配下にあったポーランドがどのように抵抗運動を抵抗したのであろうか。

 50年代のポーランドは、諸国民の春の鎮圧で独立運動が沈静化していた。しかし、ロシアがクリミア戦争に敗北。再び独立の機運が高まった。

1840年代の国際情勢

 日本は、江戸時代。三大改革最後の改革である天保の改革が行われた。

 中国は、清王朝末期。清王朝はアヘン戦争に敗北。衰退期に入っていく。

 ヨーロッパは、フランス二月革命から始まる48年革命が起こる。

 アメリカは、アメリカ=メキシコ戦争でメキシコに勝利。

クラクフ蜂起

概要

 ポーランドの独立運動は、48年革命の2年前に始まっていた。クラクフ蜂起とガリツィア地方の反乱である。

クラクフ

 クラクフは、ポーランド南部にある都市である。17世紀初頭にワルシャワへ遷都するまでは、ポーランドの首都であった。そのため、歴史的建造物が多い。いわゆる古都である。クラクフの歴史地区は、世界遺産に登録されている。首都の役割をしていた関係で、ユダヤ人が多く居住していた。

 15年のウィーン議定書では、クラクフ大公国として自治権を認められたが、オーストリア・ロシア・プロイセンの保護国であった。

 46年2月、クラクフ蜂起が起こる。これは鎮圧され、クラクフ大公国は消滅。オーストリアに併合された。

 48年3月、ウィーン三月革命が起こると、再びクラクフで蜂起が起こる。これをきっかけに諸国民の春が始まる。

ガリツィア

 ガリツィアは、ポーランド南西部からウクライナ北東部にまたがる地域である。

 18世紀後半のポーランド分割で、オーストリアに併合された。

 46年2月にクラクフ蜂起が起こると、ガリツィアの貴族たちが王国復活のために、独立運動を起こした。しかし、これは失敗した。

48年革命

フランス二月革命

 48年革命は、フランス二月革命で始まる。超富裕層を優遇した七月王政が崩壊した。これにより、フランスは第2に共和制へ入る。

ウィーン三月革命

 オーストリアは、クラクフ蜂起やガリツィアの独立運動に代表される自由主義運動や諸民族の独立運動に介入。オーストリア王室は、疲弊していた。

 48年2月、フランス二月革命が起こると、オーストリアの首都ウィーンにもこの情報が波及。ウィーン三月革命が始まる。3月、群衆が宮殿を包囲。宰相メッテルニヒがイギリスに亡命。これでウィーン三月革命が収束する。

諸国民の春へ

 フランス二月革命が起こると、3月3日、ハンガリー議会でコシュートが独立に向けた演説が行われる。

 14日、ウィーン三月革命が勃発。2年前にオーストリアに併合されたクラクフ(ポーランド)が蜂起。

 これに呼応するかのように、チェコ(ベーメン)、ハンガリー、北イタリア(ヴェネツィア、ロンバルディア<ミラノ>)が独立運動を開始した。これが諸国民の春である。

 しかし、いずれの独立運動もロシア軍の介入により鎮圧された。

ポーランド

 諸国民の春は、クラフトやガリツィアなどオーストリアに近い南部で展開された。

 ロシアは、この独立運動がポーランド全域に広がるのを警戒し、早めに介入。これにより、ポーランドでは、諸国民の春の影響はそれほどなかった。