1800年代のポーランド
00年代のヨーロッパは、ナポレオンによりフランス革命が集結。フランスではナポレオン帝政が始まる。これにより、ナポレオン戦争が行われる。
ポーランドは、ナポレオン戦争の中でワルシャワ大公国として独立を回復した。
18世紀後半の国際情勢
日本は、江戸時代。江戸時代中期の三大改革期。松平定信の寛政の改革が行われた時代である。
中国は、清王朝後期。乾隆帝が最大版図を獲得した。
ヨーロッパは、革命の時代。七年戦争が終結。70年代にアメリカ独立戦争が展開。80年代末にフランス革命が勃発した。
ポーランド分割
七年戦争
17世紀後半、ポーランドは、プロイセン・オーストリアとロシアに分割された。(ポーランド分割)。そのような中、西欧では、フランス革命が17世紀末に勃発。ここで台頭したのが、ナポレオンである。
04年12月、ナポレオンの戴冠式を実施。これを受けて、05年に第三回対仏大同盟が結成された。
05年12月、アウステルリッツの三帝会戦で、ナポレオンは、オーストリア・ロシア連合軍に勝利した。
第1次ポーランド分割
72年、ロシア、プロイセンとオーストリアはポーランド分割を実施した。
この背景には、宗教問題があった。ポーランドは、カトリック教の国である。ロシアは東方正教会の保護を、プロイセンはプロテスタント(ルター派)の保護を訴えて介入した。
弱体化したポーランドは、議会が領土割譲を承認。3国に領土を割譲した。
ちなみに、プロイセンはこのときに「王領プロイセン」を回復した。「王領プロイセン」は、15世紀にドイツ騎士団(プロイセンの前身)がポーランドに割譲した地域である。
第2次ポーランド分割
ポーランドは、ポーランド分割を受けて改革を実施した。
89年、フランク革命が勃発。改革は、加速。91年5月に憲法を制定。立憲君主制へ移行した。アメリカに次ぐ世界2番目の憲法である。ちなみに、同じ年9月にフランスでも憲法を制定呈した。
これに対して、ロシアが反発。プロイセンとオーストリアとともに介入しようとした。オーストリアは、フランス革命への介入で参戦せず、プロイセンのみが参加。
92年9月、プロイセンはヴェルミーの戦いでフランス革命軍に敗北。
93年1月、ポーランドは、ロシア・プロイセン連合軍と講和。領土の大部分を割譲した。
第3次ポーランド分割
翌94年、軍人貴族コシューシコがポーランドで蜂起。反乱鎮圧のために、ロシア・プロイセンとオーストリアが鎮圧軍を派遣。反乱は、鎮圧。ポーランドは分割され、消滅した。
キーパーソン
シュラフタ(貴族)
シュラフタとは、ポーランド語で貴族を意味する。16世紀後半に選挙王制が始まると、選挙権をもった。
ポーランド議会は、特殊のルールがあった。「自由拒否権」である。これは、多数決ではなく全会一致のルールがあった。そため、18世紀には議会は形骸化した。
コシューシコ
コシューシコは、ポーランドの軍人貴族である。ワルシャワとパリの士官学校を卒業した。
その後、アメリカ独立戦争に参戦。その間に、本国では第1回ポーランド分割が行われた。84年、コシューシコは、ポーランドへ帰国した。
第2回ポーランド分割が始まると、ポーランド議会は降伏。コシューシコは、これに反発し、軍隊を除隊。フランスに渡る。
コシューシコは、革命中のフランスでジロンド派やジャコバン派の議員から支援の約束を取り付けて帰国。
94年、コシューシコはポーランドに帰国。蜂起を起こす。しかし、フランスの援軍が得られずに失敗。第3回ポーランド分割につながる。
参加国
ロシア
最後に、ポーランド分割を参加国側から見ていく。
最初は、ポーランド分割を主導したロシア絡みていく。
七年戦争では、エリザベータ女帝がオーストリア側で参戦した。戦争を優勢に進めていた。エリザベータは、ピョートル大帝の娘である。
しかし、61年に急死。息子が皇帝を引き継ぐと、急に撤兵。プロイセンと単独講和を行う。ロシアの人々は、この撤兵に反発。皇帝を幽閉。即位したのがエカチェリーナ2世である。
エカチェリーナ2世は、前皇帝の妻(后)でドイツ出身である。ラスクマンを日本に派遣した。
プロイセン
プロイセンは、神聖ローマ帝国の1諸侯である。軍事大国である。17世紀初頭のスペイン継承戦争で王国に昇格。七年戦争でオーストリアと戦う。滅亡寸前になるも、ロシアとの講和をきっかけになった。
国王は、七年戦争に勝利したフリードリヒ2世である。
オーストリア
オーストリアは、神聖ローマ諸国の1つで、皇帝を輩出していた。
国王は、七年戦争で敗北したマリア・テレジアの子であるヨーゼフ2世の時代である。
フランス
ポーランドとフランスの関係は深い。
17世紀前半では、ポーランド王位継承戦争を展開した。
コシューシコは、フランスの士官学校でまなび、