1930年代のポーランド 戦間期のポーランド

1940年代前半のポーランド

 1940年代前半は、第2次世界大戦の時代である。ポーランドは、ドイツとソ連によって分割された。その後、ポーランドは復活されたが、一部はソ連に割譲された。これが現在まで続いている。

 今回は、ポーランド分割の登場人物であるドイツとポーランドの関係を見ていきます。

1930年代の国際情勢

 30年代は、第1次世界大戦と第2次世界対戦との間の時期である。通常戦間期と呼ばれる。29年から始まる世界恐慌の時代である。最も影響を受けた日本やドイツでファシズム政権が成立。これが第二次世界大戦に繋がっていく。

独ソのポーランド侵攻

独ソ不可侵条約の成立

 39年8月、ドイツとソ連は、独ソ不可侵条約を締結。隣り合わない2カ国がなぜ不可侵条約を結んだのか。それは、ポーランド分割を前提にしていたからである。以下では、細かい経緯を見ていきます。

 ドイツは、ヒトラー政権の時代。周辺国を次々併合していた。

 一方、ソ連は、スターリン政権の時代である。ソヴィエト=ポーランド戦争で失った領土の回復を画策していた。

 話は遡る。39年3月、ドイツは、ポーランド回廊の自由通行権を要求した。ポーランド回廊とは、ドイツ本土と飛び地である東プロイセンの間にあるポーランド領土のバルト海沿岸部の地域である。ポーランドは、これを拒否。イギリスもこれを支持。ドイツは、ポーランド回廊を諦めた。ドイツとイギリスの間に亀裂が入り始めた。

 同39年5月、ソ連は極東で日本と軍事衝突した。ノモンハン事件である。ソ連は、二正面作戦をさけるため、ヨーロッパ諸国に和平的になった。これにより、ソ連は国際強調路線を捨て、ドイツとの提携を模索。

 39年8月、ポーランド分割を前提とした独ソ不可侵条約が締結された。

英仏と相互援助条約を締結

 独ソ不可侵条約は、世界に激震を与えた。イギリスも例外ではない。当時のイギリスは、ドイツをソ連への防波堤として考えていた。その2国がイギリスに牙を向き始めたのである。

 イギリスは、ターゲットとなったポーランドとイギリス=ポーランド相互援助条約を締結。ドイツのポーランド侵攻を牽制した。

 フランスも、これに追随した。

助けてくれない英仏

 ドイツは、イギリスの牽制を無視。9月1日、ポーランドへ侵攻。これにより、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。第2次世界大戦が勃発した。

 ただ、イギリス・フランスは、宣戦布告するものの、実際には軍隊を動かさなかった。これにより、ポーランドは、ドイツとポーランドに分割された。

ヒトラーの恐怖

ヒトラー政権の成立

 29年10月、ニューヨーク市場の株価大暴落をきっかけに世界恐慌が始まる。多くの金融機関が資金を引き上げた。影響が大きかったのがドイツである。

 ドイツでは、既存勢力が衰退。代わりに台頭したのが、ヒトラー率いるナチ党と共産党である。共産党を警戒した保守層(産業界や軍部など)は、共産党を恐れて、ナチ党を支援するようになった。

 32年の選挙でナチ党が第1党。32年1月、ヒトラー首相が誕生した。

ピウスツキ政権

 当時のポーランドは、ピウスツキ独裁政権の時代である。ヒトラーのような独裁政権であったが、民族や宗教には寛容であった。

 ドイツのヒトラー政権が反ユダヤ主義を進めると、多くのユダヤ人がポーランドへ亡命した。

ドイツと不可侵条約を締結

 33年、ヒトラー首相が誕生。ピウスツキはこれを脅威に感じた。そのため、フランスと同盟を結んでヒトラーを牽制しようとした。

 しかし、フランスはこれを拒否した。これには2つの理由がある。1つ目は、第1次世界大戦で反戦モード担っていた。さらに、世界恐慌で戦費の調達が困難になったいたためである。

 ピウスツキは、しかたなく、34年、ドイツのヒトラーと不可侵条約を締結した。

ミュンヘン会談

 ドイツは、38年3月、オーストリアを併合。

 同38年9月、ドイツは、チェコスロバキア政府にスデーテン地方の割譲を要求。チェコスロバキア政府は、イギリスに支援を求めた。

 これにより、ドイツ、イギリス、イタリアとフランスの4カ国によるミュンヘン会談が行われた。当事国のチェコスロバキアや強国のソ連はこの会議に参加できなかった。

 ミュンヘン会談で、スデーテン地方の割譲が決まった。

 翌39年3月、ドイツは、チェコスロバキアを解体した。その後、ドイツが求めたのが、ポーランド領のポーランド回廊である。

ソ連と和解

概要

 32年、ポーランドは、ソ連と相互不可侵条約を締結。国境が確定し、ソヴィエト=ポーランド紛争は終結した。

国境問題

 第一次世界大戦が終了後、ソ連(ベラルーシ・ウクライナ)とポーランドの国境が問題になった。そこで起きたのがソヴィエト=ポーランド戦争である。カーゾン線より東側に国境が確定した。

 国際連盟は、ポーランド分割時のドイツとポーランドの国境を国境として提案した。これがカーゾン線である。しかし、ポーランドは、ポーランド分割前の国境を主張した。

 ソ連は、この戦争で失った領土の取り返しを画策した。これが第二次世界大戦につながる。

 ちなみに、現在のポーランドとウクライナ・ベラルーシとの国境はカーゾン線になっている。