前回の復習 16世紀前半のシリア・パレスチナ
16世紀、シリア・パレスチナは、オスマン帝国の支配下に入っていた。
今回は、オスマン帝国の前にシリアを統治していたエジプトのマムルーク朝を見ていきます。
15世紀の国際情勢
15世紀(1401年ー1500年)、日本は室町時代。15世紀初頭に、足利義満が南北朝を統一。15世紀なかばに応仁の乱が発生。ここから戦国時代に入っていく。
中国は、明王朝の時代。14世紀初頭に永楽帝の全盛期を迎える。
ヨーロッパでは、大航海時代が始まる。15世紀初頭には、ポルトガルがアフリカ沿岸部の探検を開始、。15世紀末には、ポルトガルはインド航路を開拓。スペインは、ナポレオンがアメリカ大陸に到達した。
フランスは、百年戦争でイングランドに勝利。この勢いで、神聖ローマ帝国(ドイツ)とイタリア戦争に向かっていく。一方、敗北したイングランドでは、内戦(ばら戦争)が勃発する。
マムルーク朝
15世紀、シリア・パレスチナは、エジプトのマムルーク朝の支配を受けていた。
マムルーク朝は、13世紀にトルコ系軍人奴隷(マムルーク)がエジプトでクーデターを起こして成立した国である。16世紀初頭に、オスマン帝国によって滅ぼされる。
シリアの安定
シリア・パレスチナ
シリア・パレスチナは、北にトルコ(イスタンブル)、東にイラク(バグダード)、南にエジプト(カイロ)がある。そのため。この地域は、トルコとエジプトの係争地であった。
ティムール帝国(イラク)の侵攻
00年、中央アジアのティムールがシリアへ侵攻。01年にダマスカスを占領した。これにより、シリアの街はことごとく破壊された。
02年、アンカラの戦いでオスマン帝国に勝利した。
しかし、05年にティムールが死去し、混乱。混乱は収束したが、69年に分裂。15世紀初頭にウズベク人によって滅ぼされる。
存亡の危機のオスマン帝国(トルコ)
当時、トルコを支配していたのは、オスマン帝国である。このオスマン帝国は、存亡の危機に瀕していた。それが、15世紀初頭に台頭した。イランのティムール朝である。
02年、オスマン帝国は、アンカラの戦いでティムール朝に敗北。シリアに関心を持つ余裕はなかった。
しかし、49年に、ティムール朝のウルグ=ベクが死去。ティムール朝が衰退期に入ると、オスマン帝国は息を吹き返す。53年に、コンスタンティノープルを征服(ビザンツ帝国の滅亡)。シリア侵攻の準備を始めていく。
カリフはカイロに
マムルーク朝の都カイロは、宗教の中心地でもあった。カリフはカイロで保護されていた。
また、マムルーク朝は、聖地メッカとメディナを統治。さらにエルサレムも統治していた。
経済)東方貿易
ムスリム商人
15世紀初頭、明王朝の永楽帝が鄭和の大航海を実施。中国から東南アジア、インドを通り、東アフリカまでつながるインド洋航路が整備された。
鄭和の大航海がおわると、その航路を使ってムスリム商人が交易を開始した。アジアの商品は、カイロを通して、ヨーロッパに販売された。
カイロに拠点を置く、ムスリム商人は、カーリミー商人と呼ばれた。
ヴェネツィア
ヴェネツィア商人は、カイロでアジア商品を買い付けていた。14世紀から15世紀にかけて、ヴェネツィアは全盛期を迎えていた。
黒死病流行
14世紀なかば、ヨーロッパで黒死病が流行。東方貿易をつうじて、マムルーク朝にも広まった。これにより、マムルーク朝の人口が減少。これが軍事力の低下に繋がった