前回の復習 1880年代のシリア・パレスチナ
19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀後半に入ると、オスマン帝国は弱体化。ヨーロッパ各国は、中東の植民地化に向かい始めた。
1870年代の国際情勢
1880年代、日本は明治時代。明治憲法が成立し、帝国議会が開かれた。
世界は、近代から現代へ移行する時代。普仏戦争に勝利したドイツ帝国を中心に平和外交が展開された。73年に金融恐慌が発生。これにより、多くのアジア諸国が資金繰りに苦しんだ。
キプロス島とベルリン条約
キプロス島はイギリス領へ
78年、ベルリン会議を開催。このとき、オスマン帝国は、イギリスに割譲された。
キプロス島
キプロス島は、東地中海に浮かぶ島である。北は、海を挟んでトルコ、東は、海を挟んでシリアがある。
キプロス島は、12世紀から13世紀にかけて、十字軍の拠点であった。アッコンが陥落すると、多くの人々がキプロス島へ避難した。その後、東方貿易の拠点になった。16世紀後半、キプロス島は、オスマン帝国の支配下に入った。この時期に多くのトルコ人がキプロス島へ移住した。
78年、ベルリン会議でイギリス領に。1955年、ギリシャ系住民が、ギリシャへの統合を求め、独立運動を開始。1960年に、キプロス共和国として独立。トルコ系住民とギリシャ系住民の間で紛争が起こっている。
ベルリン条約とベルリン会議
78年、オスマン帝国は、露土戦争でロシア(アレクサンドル2世皇帝)に敗北。サン=ステファノ条約でバルカン半島のすべてを失った。ロシアの大幅な領土拡大に、イギリス(ディズレーリー首相)が待ったをかけた。
これにより始まったがのが、ベルリン会議である。議長は、ドイツ帝国のビスマルクである。この会議で、バルカン半島の一部がオスマン帝国に返還された。その見返りに、オスマン帝国は会議参加国に領土を割譲した。
- オーストリア バルカン半島北東部のボスニア=ヘルチェゴビナ
- イギリス 東地中海のキプロス島
- フランス 北アフリカのチュニジア
なぜ、露土戦争に破れたのか
露土戦争
77年、ロシアが、バルカン半島を獲得するためにオスマン帝国へ侵攻した。これが、露土戦争である。
78年、オスマン帝国は敗北。サン=ステファノ条約を締結した。
56年のクリミア戦争では、イギリスとフランスの支援を得ることでロシアに勝利することができた。しかし、露土戦争では、そうはならなかった。ここでは、その要因を見ていきます。
オーストリアはなぜ支援しなかったのか
70年代は、ビスマルク外交の時代である。ドイツ、オーストリアはロシアと三帝同盟を締結。中欧、東欧の主要国は同盟関係にあった。
そのため、中欧東欧の強国は、この戦争に参加しなかった。
フランスはなぜ支援しなかったのか
では、フランスはなぜ支援しなかったのか。70年代のフランスは普仏戦争後の混乱期。他国へ介入する余裕はなかった。
イギリスはなぜ支援しなかったのか
では、イギリスはなぜ支援しなかったのか。それは人道的問題である。75年にバルカン半島でセビリア人の反乱が発生。オスマン帝国はこれを鎮圧。
ミドハト憲法の失敗
露土戦争で憲法停止
77年、露土戦争が始まると、ミドハト憲法を停止し、専制政治へ戻した。
元々、ミドハト憲法は、ヨーロッパ諸国の支援をえるために制定されてものである。しかし、ミドハト宰相は、ヨーロッパの支援を得ることができなかった。そのため、ミドハト宰相は失脚。これがミドハト憲法の停止の要因になった。
06年、明治憲法下の日本が、イギリスの支援を受けて、日露戦争に勝利。
ミドハト憲法
76年、ミドハト憲法を制定。絶対王政から立憲君主制へ移行した。
立憲君主制は、憲法によって王権を制限し、政治が王室ではなく議会(国会)になる。
財政破綻でミドハト憲法制定へ
財政破綻
75年、オスマン帝国は財政破綻した。
オスマン帝国は、タンジマートの近代化政策の真っ只中にあった。上からの近代化は多額の資金を必要とする。それを、外国からの借入(借款)で調達した。56年、
70年代に入ると、ヨーロッパで金融恐慌が発生。これにより、アジア諸国は資金調達が行き詰まる。オスマン帝国もその一つである。オスマン帝国は、75年に財政破綻した。
その後、新たな資金調達の目的で制定されたのが、ミドハト憲法である。