1930年代のシリア・パレスチナ アラブ人とユダヤ人の対立

前回の復習 1940年代前半のシリア・パレスチナ

 1940年代前半は、第二次世界大戦の時代である。ナチスがユダヤ人の迫害(ホロコースト)を実施。多くのユダヤ人がイスラエルへ亡命。パレスチナではユダヤ人移民の増加が問題となった。

 フランスが、ナチスの支配下に入るとシリアやレバノンが独立した。

1930年代の国際情勢

 30年代は、一言でいうと世界恐慌の時代である。29年のニューヨークの株価大暴落(ブラックサーズデー)をきっかけに世界恐慌が始まる。これが、39年の第二次世界大戦につながる。

 日本は、満州事変をきっかけに国際連盟を脱退。ニ・ニ六事件によって軍国主義に向かっていた。中国では日中戦争が勃発した。

 イギリスやフランスでは、ブロック経済を実施。ドイツではヒトラー総統が率いるナチ党が台頭した。

パレスチナ)ユダヤ人vsアラブ人

チェンバレン政権の仲介案

 30年代、パレスチナはイギリス委任統治領であった。元々はアラブ人が居住していいたが、ユダヤ人移民が増加していた。

 39年5月、チェンバレン政権はパレスチナ白書をイギリス議会で採択した。その内容は、以下の通りである。

  • パレスチナは、ユダヤ人とアラブ人の共同国家として10年以内に独立させる。
  • ユダヤ人の移民枠は引き続きつづける。移民枠の拡大にはアラブ人の同意を必要とする。
  • アラブ人からユダヤ人への土地売却について規制する。

 この内容は、ユダヤ人にとって不利な内容であった。統一国家はまだ少数派のユダヤ人にとって不利な内容である。

 チェンバレン政権は、宥和政策としてヒトラー総統に対して寛容な政策を取っていた。その代表例が38年のミュンヘン会談である。

アラブ人の反乱

 では、イギリス政府はパレスチナ白書を発表したのであろうか。

 パレスチナはユダヤ系移民とアラブ人との内戦状態にあった。

 きっかけはドイツである。ヒトラーが台頭すると、ユダヤ人の迫害が始まった。これにより、多くのユダヤ人がドイツを離れた。その一部がパレスチナへ向かった。

 パレスチナでは、ユダヤ系移民の急増とユダヤ人の土地購入が進んだ。

 ユダヤ人の意味に反発する一部のアラブ人はテロ活動を行った。この過激派組織は「黒い手」と名乗った。

 36年、アラブ大反乱が起こると、アラブ人とユダヤ人との間で内戦状態になった。イギリス軍は鎮圧のために派兵。多くの犠牲を出すも内戦を収束させることができなかった。

 イギリスは、この間に何度も調停を行ったがいずれも不調に終わった。

 38年、アメリカは、イギリスに対してユダヤ人の移民枠の拡大を要求。しかし、イギリスはこれを拒絶した。ユダヤ人を迫害しているアラブ人とドイツがつながるのを恐れたためである。

嘆きの壁事件

 では、なぜアラブ人はユダヤ人を嫌うようになったのか。そのきっかけになる事件があった。29年の嘆きの壁事件である。

 嘆きの壁は、エルサレムにあるユダヤ教徒の聖地である。このエルサレムにはキリスト教の聖地とイスラム教の聖地もある。

 29年、ユダヤ教徒の若者がシオニストの旗を振り、シオニストの歌を歌った。これはイスラム教徒である現地のアラブ人の感情を逆撫でした。この事件は武力衝突まで悪化した。これが、ユダヤ人とアラブ人との対立の始まりである。

シリア)フランスからの独立

フランス委任統治

 シリアとレバノンは、30年代フランスの委任統治領であった。

フランス=シリア独立条約

 36年、フランス=シリア独立条約が成立。しかし、ナチス=ドイツがラインラント進駐を始めると、フランス議会が批准せず。独立は実現しなかった。