1840年代のシリア・パレスチナ オスマン帝国と西欧化政策

前回の復習 1850年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀後半に入ると、オスマン帝国は弱体化。ヨーロッパ各国は、中東の植民地化に向かい始めた。

 50年のオスマン帝国は、クリミア戦争の時代である。このクリミア戦争によって、オスマン帝国はヨーロッパの影響を更に受けるようになる。

1840年代の国際情勢

 1840年代、日本は江戸時代後期。大御所政治が終わり、天保の改革が行われていた時代である。

 ヨーロッパでは、48年革命により、市民革命は絶頂期に達した。

 中国は、アヘン戦争でイギリスに敗北。清王朝の衰退が始まる。アメリカは、アメリカ=メキシコ戦争に勝利。カリフォルニアを獲得する。

オスマン帝国とシリア

ロンドン四国条約

 30年代の中東は、エジプト=トルコ戦争の真っ只中にあった。シリア(シリア、パレスチナ)は、その係争地であった。

 41年、ロンドン四国条約で、エジプト=トルコ戦争は講和。

 この会議で、シリアはエジプトからオスマン帝国へ返還された。その見返りに、オスマン帝国は、ムハンマド=アリーにエジプトとスーダン(エジプトの南)の世襲を認めた。

 これにより、エジプトは事実上の独立を果たした。

シリアとタンジマート

タンジマート(西欧化政策)

 オスマン帝国は、39年にギュルハネ勅令を発表。臣民としての基本的人権の尊重。税制を改正し、徴税請負制を廃止する。徴兵制も見直された。この勅令により、オスマン帝国の官僚は、法律・行政・財政・軍事・教育の西欧化が進めた。日本で言う国会開設の詔に当たるものとされる。

 その骨子は、宗教や民族による差別をなくすことにあった。その背景にあったのはイギリスへの心象がある。

ヨーロッパ商人がシリアへ

 38年のイギリスとの通商条約と39年のギュルハネ勅令で多くの外国商人がオスマン帝国に拠点をおいた。その中心は、地中海沿岸のシリアであった。

 主な輸出品は、綿花や小麦・オリーブ油・生糸で、主な輸入品は、イギリス製の綿製品である。これにより、オスマン帝国の工業化が遅れた。また、産業の中心が綿花やタバコなどの商品作物になった。これにより、70年代の綿花の暴落で深刻な不況に入る。

 イギリスは、この時期からパレスチナに影響力を高め、アラブ民族との関係を深めていく。一方、フランスは、ロンドン会議に参加できなかったため、シリア進出に出遅れた。これを打開したのが、ナポレオン3世である。

ヨーロッパ資本に依存

 タンジマートが始まると、ヨーロッパ資本が流入した。ヨーロッパ資本の会社が多くなった。

 また、オスマン帝国は軍隊の西欧化を実施した。そのため、軍事費が増大した。これらの資金は、イギリスなどのヨーロッパからの借金(借款)に依存した。そのため、オスマン帝国の官僚は、借款を実施するために、西欧風の税制を導入した。

 70年代不況で、資金調達が困難になり、オスマン帝国は衰退の道を歩み始める。

宗教のるつぼレバノン

 タンジマートは、宗教や民族による差別をなくすことが骨子であった。その影響を最も受けたのが、宗教のるつぼであったレバノンであった。

 レバノンは、山岳地帯で少数民族が多数存在した。そのため、多くの少数派の宗教があった。キリスト教マロン派、東方正教会やイスラム教ドゥールズ派などである。

 レバノンは、輸出品の主力である生糸の産地である。そのため、ヨーロッパ商人がシリアに進出すると、ヨーロッパ勢力は、これら少数派宗教と結びつきを強めた。

 キリスト教マロン派は、元々ローマ教皇の支援を受けていた。そのため、同じカトリックのオーストリアがこれを支援した。東方正教会はロシアと結びつきを強めた。そして、ヨーロッパ勢力と関係が乏しかったイスラム教ドゥールズ派は、宗教色の薄いプロテスタントのイギリスと結びついた。

 オスマン帝国は、エジプトからレバノンが返還されると、その統治に苦慮した。そして、42年、レバノン北部にマロン派の代官を、レバノン南部にドゥールズ派の代官を置いた。