中世の中国② 宋王朝

概要

 中国の歴史は、下記のようになっている。今回扱うのが太字の部分である。

  • 古代 中国文明 → 殷王朝・周王朝 → 春秋戦国の戦乱期 →秦王朝・漢王朝 → 魏晋南北朝の戦乱期
  • 中世 隋唐王朝 → 五代十国の戦乱期 → 宋王朝 → 元王朝 →明王朝
  • 近代 清王朝
  • 現代 中華民国 → 中華人民共和国

前史 唐王朝の滅亡と五代十国の戦乱期

 8世紀、財政難により節度使制度を導入。地方分権が進む。

 8世紀半ば、タラス河畔の戦いの敗北や安史の乱で皇帝(中央)の権力が弱まり、節度使が自立化し、藩鎮と呼ばれるようになる。

 9世紀後半、黄巣の乱で唐王朝はさらに弱体化。

 10世紀初頭、唐王朝は滅亡。

 政治では、藩鎮同士が覇権を争う五代十国の戦乱期に入る。一方、8世紀後半の両税法で土地所有を認められた新興地主層が台頭してくる。

五代十国期の東アジア

王朝交代

 9世紀後半から10世紀にかけて、唐王朝は衰退。これにより東アジアは唐王朝の影響が弱まった。

 北方騎馬民族では、9世紀半ば、キルギスがウイグルを滅ぼす。ウイグルは中央アジアへ移住した。

 また、北方には、モンゴル系騎馬民族の契丹が台頭。10世紀前半に中国東北部の渤海を征服した。

 朝鮮半島では、10世紀初頭、高麗王朝が新羅王朝を滅ぼす。

 雲南でも、大理が南詔から政権交代した。

 ベトナムも、10世紀後半に中国から独立した。11世紀初頭には、李氏が大越国を建国した。

独自文化の形成

 高麗(朝鮮半島)では、仏教が盛んになる。『大蔵経』が作られた。そして、高麗青磁が作れれた。12世紀末、武官が政権を握るようになる。

 日本では、8世紀末に平安京(京都)に遷都。9世紀末に遣唐使廃止。源氏物語に代表される国風文化が栄えた。12世紀末、鎌倉幕府が成立。武家政権の時代に入る。

 これは、宋王朝の文化にも影響を与えた。唐の時代とは異なり異国文化の流入があまりなく、中国らしい文化が形成された。経済面では朝貢貿易が衰えたが、民間の交易は盛んになった。銅銭や陶磁器の輸出で栄えた。広州(香港周辺)・泉州(福建省周辺、台湾島の対岸)・明州(上海周辺・長江河口付近)が貿易港としてあ変えた。これらの貿易港には市舶司が置かれ貿易を管理した。

北方騎馬民族に貢物

 9世紀半ば、キルギスによりウイグルすいたい。それにあわせて、モンゴル高原では、モンゴル系の契丹族が台頭した。

 10世紀初頭、契丹族のトップに耶律阿保機がトップになり最盛期を迎える。中国東北部の渤海を滅ぼす。また、五代十国期の戦乱中に、北京周辺の燕雲十六州を獲得。

 11世紀初頭、宋王朝と和議を結ぶ。(澶淵の盟)。宋王朝は契丹族に銀や絹を送ることを約束した。

 契丹族は、それまでの騎馬民族王朝と異なり、遊牧民族と農耕民族の両方を統治することになった。(二重統治体制)。北方の遊牧民族や狩猟民族に対しては部族制を、南部の農耕民族に対しては州県制をとった。

 契丹族は、中国の文化も一部取り入れた。国名を中国風のと名乗ることもあった。ウイグル文字と漢字をミックスした契丹文字が開発された。

 中国西北部には、タングート族が台頭。チベット系の吐蕃やトルコ系のウイグルから独立し統一国家を建国した。トップの李元昊は皇帝を名のり、中国最古の王朝といわれる夏王朝にあやかり国名を大夏と名乗った。一般的には西夏と呼ばれる。

 中国東北部は、10世紀初頭に渤海が契丹族に征服され、契丹族の支配下にあった。

 12世紀初頭、完顔阿骨打が契丹族から独立し、金王朝を建国。12世紀前半、宋王朝は金王朝と同盟し、契丹族を滅ぼした。その後、宋王朝と金王朝が対立。金王朝は華北(中国の北半分)を占領。都の開封も金王朝の支配下に入った。

 契丹族の耶律大石は、中央アジアへ亡命。西遼を建国した。

 金王朝は、契丹族の政治システムを踏襲した。猛安・謀克と呼ばれる部族制と州県制を併用した。また、女真文字を作った。 

政治

 10世紀半ば、趙匡胤は中国最大の都市開封に宋王朝を建国。10世紀末、2代目の太宗が中国を再統一した。

 宋王朝は、地方の軍事勢力の力をそぐため、中央から文官を派遣するようにした。これを文治政治という。皇帝専制を強化するために、皇帝の親衛軍を強化した。

 唐王朝期に導入された官吏登用制度である科挙が整備。貴族にかわり、科挙官僚が政治の中枢を担った。華僑の合格者は経済力のある富裕層に限られた。当時の富裕層は、両税法の導入で台頭した新興地主層である。彼らは、形勢戸と呼ばれた。

 宋王朝は、契丹や西夏への貢物や中央官僚や親衛軍の給料で財政がひっ迫した。11世紀後半、王安石が改革を実施した。その内容は中間層の所得を引き上げて税収を増やそうという計画であった。しかし、この政策は、形勢戸などの富裕層の利益を減らす政策のため、反発する官僚も多かった。王安石の死後、改革派(新法党)と保守派(旧法党)の対立で宋はさらに衰退した。

 12世紀初頭、宋王朝にチャンスが到来した。金王朝の独立である。宋王朝は、金王朝と軍事同盟を結び契丹族を滅亡させようとした。しかし、宋王朝は実際に軍を動かさなかった。金王朝は単独で契丹族を滅亡させた。

 金王朝は、宋王朝に怒り華北へ侵入。開封を占領。皇帝と上皇を捕虜にした。(靖康の役)

 皇帝の弟が江南にのがれ帝位につき宋王朝(南宋)の再興を発表した。都は杭州の臨安に置かれた。南宋の最初の課題は金王朝への対応である。秦檜らの和平派と岳飛らの主戦派で対立した。和平派の主張が認められ、中国北部を金王朝に割譲し、金や絹を送ることで和平が結ばれた。

 現代の中国では、主戦派の岳飛は英雄として語られる。一方、和平派の秦檜は売国奴として非難されている。

社会・経済

宋の都 開封

 開封は、大運河(6世紀末の隋王朝の時代に作られた)と黄河の交点に当たる商業都市である。

 それまで、華北の都は内陸部の長安と洛陽であった。しかし、8世紀半ばタラス河畔の戦いの敗戦で中央アジアはイスラムの勢力下に入った。さらに安史の乱で長安は灰になった。以後、内陸部の長安や洛陽は以後衰退していった。

 開封は、大運河の建設された隋王朝以降に発展していった。

市場の誕生

 宋王朝の時代は商業が活発化した。そのため各地に市場が成立した。これらの市場は草市と呼ばれた。商業都市には、商人や手工業者の組合ができた。商人の組合はと、手工業者の組合はと呼ばれた。銀行は、商人組合の行からとられた。

世界初の紙幣

 宋王朝では銅銭(宋銭)が主として使われていた。12世紀後半の平清盛の日総貿易でも大量の宋王朝の銅銭が流入した。このほかにも金銀が地金で取引されていた。

 宋王朝の時代に入ると紙幣が登場した。唐王朝の時代には手形(飛銭)が登場していた。宋王朝の時代に入ると、内陸部の視線で交子が登場。そして北宋では会子が発行され、南宋へ引き継がれた。一方で、金王朝では交紗が使われた。交紗は元王朝へ引き継がれた。

江南の開発

 南宋が成立すると、経済の中心は中国南部(長江流域)に移った。長江流域の耕作が進み、「蘇湖(長江下流部)が熟すれば天下足る」といわれるようになった。

 長江下流域では、湿地帯を干拓して作られた囲田が造成された。また、ベトナムから新たなコメの品種(占城稲)が導入。農業生産量は飛躍的に伸びた。

手工業の発達

 長江下流域では、陶磁器の生産を中心に手工業が発展した。また、

 茶の栽培も始まった。遼の貢物にはなかったが、西夏には貢物に茶が加わった。

 絹製品の製造も増えた。

文化

特徴は以下の3点である。

  • 唐王朝の国際色が薄れ、中国独自の文化が形成。
  • 担い手が貴族から新興地主層(士大夫)に代わる。
  • 商人を中心とした庶民文化が台頭。

文化の担い手である士大夫とは

  • 政治的には、科挙に合格したエリート官僚
  • 経済的には、両税法に裏付けされた新興地主層(形勢戸)
  • 文化的には、

 陶磁器は、色彩豊かな唐三彩から、白磁青磁などの質素なものが作られるようになった。この質素が鎌倉文化につながる。この頃から景徳鎮が作られる。

 文学では、欧陽脩蘇軾らが活躍した。

 美術では、宮廷画家が描く院体画や士大夫が描く文人画が描かれた。

 庶民文化も発展。小説や雑劇が作られた。音曲に合わせて歌うが盛んに作られた。

 儒学の分野では、唐代の訓詁学から、朱子学(宋学)が中心になった。訓詁学が経典の字句解釈を重視するのに対して、朱子学は哲学的要素が加わった。大義名分論中華思想はこの時代の登場した。経典としては四書が成立した。四書は、大学、中庸、論語と孟子で構成されている。大義名分論をベースとした編年体の歴史書で司馬光の『資治通鑑』がある。

 仏教でも哲学的な要素がある禅宗がはやった。禅宗は官僚層に支持された。これは日本に伝わり、12世紀の鎌倉新仏教の臨済宗や曹洞宗につながる。

 また、王重陽は、儒教・仏教・道教を調和した全真教が成立した。

 宋王朝時代に入ると、唐代に始まった木版印刷が普及。羅針盤や

か 宋王朝時代に入ると、唐代に始まった木版印刷が普及。羅針盤や火薬が実用化された。この技術はイスラム世界を経由してキリスト教社会にも伝わった。