古代の中国② 魏晋南北朝の戦乱期

概要

 ここでは、3世紀から6世紀の中国の歴史を見ていきます。漢王朝の滅亡から隋王朝の成立までの戦乱期を見ていきます。

中国の歴史

  • 古代 中国文明→周王朝→春秋戦国の戦乱期→漢王朝→魏晋南北朝の戦乱期
  • 中世 唐王朝→五代十国の戦乱期→宋王朝→元王朝→明王朝
  • 近代 清王朝
  • 現代 中華民国と中華人民共和国

 この時代は、漢王朝が衰退。漢王朝が滅亡し、三国時代に入る。晋王朝が成立。華北に異民族(五胡)が侵入。晋王朝は江南へ移動した。華北では五胡十六国の戦乱期を経て、北魏王朝が華北を統一した。ここから南北朝の時代にが始まる。そして、6世紀末に北朝の隋王朝が中国を統一した

北方騎馬民族と中国

 紀元後1世紀半ば(光武帝の末期)、匈奴が南北に分裂。南匈奴の人々が中国内地に移住。その後、五胡(ごこ)が中国内地へ侵入した。五胡は、南匈奴のほか、匈奴の別種の羯(けつ)、東北地方(満洲)の鮮卑(せんぴ)、西方(チベット)の氐(てい)と羌(きょう)である。彼らは、後漢時代から晋王朝の時代にかけて傭兵として活動した。

 4世紀初頭に、晋王朝が混乱すると自ら王になった。これが五胡十六国時代である。

歴史

 ここで、舞台を中国内地へもどす。

 2世紀末、漢王朝の時代。豪族と宦官・外戚の勢力争いが行われていた。そのような中で宗教反乱(黄巾の乱)が発生。各地に軍事集団が形成された。

 3世紀初頭、漢王朝が魏王朝の禅譲。これに反発し、呉王朝(江南)と蜀王朝(四川)が成立。三国時代に入った。

 3世紀半ば、魏王朝が晋王朝に禅譲。晋王朝が中国を統一した。

 3世紀末、後継者争いから内乱が発生。(八王の乱)。この内乱に乗じて異民族(五胡)が侵入。中国北部は五胡十六国の戦乱に入る。

 4世紀初頭、晋王朝は江南の建康(現在の南京)に遷都。南部は六朝時代に入る。

 5世紀前半、鮮卑族の北魏が華北を統一。北朝が成立した。

 北魏は、均田制、三長制で農民を統治した。均田制とは、家族の人数などの応じて土地を与えられる制度で、三長制は村のトップを決めて統治する制度である。

 また、北魏は、漢民族の風習を取り入れた。これが漢化政策である。

社会と経済

 官吏任用制度も変わった。2世紀の三国時代の魏王朝の時代に豪族の台頭によって、地方の有力者が推薦する郷挙里選から中央の役人が直接任用する九品中正へ移行した。これに、有力豪族が上品(高級官僚)を独占するようになった。このころから有力豪族は貴族と呼ばれるようになった。

 華北(中国北部)では、多くの農民が戦乱で土地を失った。彼らは豪族に隷属していった。これにより、華北での税収は大幅に低下した。北朝は、農民の生活の安定と税収確保のために様々な政策をとった。三国時代の魏王朝(2世紀前半)の屯田制、晋王朝(2世紀後半)の占田・課田法。北魏(4世紀末)の均田制などである。

 一方、江南(中国南部)では、魏・晋王朝期の貴族が流入。貴族は、江南に大規模荘園を築き、多くの隷属民に耕作させていた。この頃には、手工業なども行われていた。

 江南(中国南部)では、道教が流行。山にこもって自給自足生活を行うものもいた。

文化

 この時代の文化も、華北と江南で独自の文化が形成された。

 華北は、戦乱の世と異民族の支配から仏教が浸透した。仏教は、1世紀にインドのクシャーナ朝から伝わった。仏教が本格的に浸透したのは4世紀後半からである。中央アジア(西域)の仏図澄(ぶっとちょう)氏や鳩摩羅什(くまらじゅう)氏が仏教の布教や仏典の翻訳を行った。さらに法顕(ほうけん)氏が直接インド(グプタ朝)で修業を行い、『仏国記』を著した。また、多くの石窟寺院が作られた。

 一方、江南では、仏教は貴族の教養として広まり、庶民まで広がらなかった。江南では道教が貴族を中心にはやった。道教は、神仙思想に、諸子百家の道家の説をくわえ、古くからの民間信仰を合わせた宗教である。

 この時代の文化の特徴は、精神の自由さを重んじるとこにあった。

日本と朝鮮

 朝鮮半島や日本では、新興国が成立する時期であった。その権威付けとして、中国王朝へ朝貢使節を派遣した。

 朝鮮半島北部では、紀元前1世紀に高句麗が成立。4世紀初頭の五胡十六国の戦乱期に、楽浪郡を滅ぼした。

 朝鮮半島南部では、小国が乱立していた。4世紀半ばには百済と新羅が成立。朝鮮半島は、三国時代に入った。この三国は、中国の北朝や南朝に施設を受け入れた。儒教や漢字を受け入れ、仏教も国家の保護を受けて繁栄した。

 日本はどうでしょう。3世紀に邪馬台国が、三国時代の魏王朝に使いを送った。4世紀、ヤマト政権が成立。5世紀、大和政権の王は、南朝に使節を送った。