中国史の全体像
今回は、7世紀から10世紀の中国の様子を見ていきます。メインテーマは唐王朝です。
ここで中国史の大まかな流れを復習しましょう。
- 古代 中国文明→周王朝→春秋戦国の戦乱期→漢王朝→魏晋南北朝の戦乱
- 中世 唐王朝→五代十国の戦乱期→宋王朝→元王朝→明王朝
- 近代 清王朝
- 現代 中華民国と日中戦争→中華人民共和国
唐王朝の建国
6世紀末、北朝で文帝(楊堅)が下克上。隋王朝を開く。そして南朝を滅ぼし中国を統一した。北朝で採用されていた均田制(土地制度)・租調庸制(税制)・府兵制(軍事制度)を採用した。官吏登用制度では、九品中正から科挙へ変更した。
7世紀に入ると、煬帝が即位。華北と江南を結ぶ。大運河を建設。しかし、高句麗遠征失敗などで信を失い、30年弱で隋王朝は滅亡した。
7世紀初頭、軍閥の李淵(高祖)が隋王朝を倒し、唐王朝を成立させた。
7世紀前半、太宗(李世民)が中国を統一。東突厥を服属させた。
7世紀半ば、高宗は、新羅と同盟し、百済・高句麗を破り、中央アジアに領土を拡大した。
唐王朝は、征服地に都護府をおき、実際の統治はその地の有力者に任せた。これを羈縻政策(きびせいさく)という。
唐王朝の政治・経済・文化
唐王朝の時代は、法律に基づく律令国家であった。
中央は三省六部(現代日本の省庁に相当)と御史台が設置された。地方は州県制がひかれた。
均田制(土地所有制)・租調庸制(税制)・府兵制(軍事)はそのまま引き継がれた。
しかし、唐王朝では、江南の貴族に配慮して高級官僚に荘園(均田制の対象外の農地)の保有を認めた。
都の長安では、国際色が豊かになった。近隣諸国の留学生(日本の遣唐使など)やイラン人難民(7世紀にササン朝は滅亡)が多く集まった。とくにイラン系の文化が流入。景教(キリスト教のネストリウス派)や祆教(ゾロアスター教)、マニ教の寺院が作られた。
朝貢によって海上交通も栄えた。揚州(現在の上海)や広州(現在の香港)は栄えた。このエリアには多くのムスリム商人が訪れた。
仏教も大きく発展した。帝室や貴族は仏教を保護した。玄奘や義浄は7世紀前半にインドのヴァルダナ朝で修業した。中国独自の文化も形成された。浄土宗や禅宗はこの時代に成立した。
科挙も唐王朝の文化に大きな影響を与えた。試験科目の儒学は訓詁学を発展させた。(孔よう達『五経正義」)。また、漢詩も試験科目にあったため、李白、杜甫や白居易などの漢詩作家も多く誕生した。
近隣諸国の様子
モンゴル(北方騎馬民族)
6世紀半ば(南北朝時代)にトルコ系の突厥、8世紀半ば(安史の乱のころ)にウイグル、9世紀にキルギス。突厥時代から文字の使用が始まる。
チベット
7世紀に吐蕃が成立。インド仏教とチベットの民間信仰が融合したチベット仏教が成立した。
雲南
雲南は、チベットの南の高原地帯を指す。唐の衰退が始まる8世紀半ばに南詔が成立。9世紀に滅亡した。
日本・朝鮮半島・満洲
朝貢制度を通じて、律令制度、都の整備(平城京・平安京)、仏教文化が浸透した。朝鮮半島では7世紀半ばに新羅が朝鮮半島を統一した。新羅王朝では、氏族制度をベースにした骨品制という身分制度が導入された。
一方、敗北した高句麗は満洲(中国東北地方)へのがれ渤海を建国した。
日本は、7世紀半ばの大化改新を経て、律令国家制度を成立。同じ頃、白村江の戦いで敗北。唐の文化を積極的に学んだ。8世紀には、平城京が完成。大宝律令が成立。奈良の大仏も作られた。唐の影響を大きく受けたこの時代の文化を天平文化という。
東南アジア
この時代、東南アジアのカンボジア・チャンパー(ベトナム)、シュリーヴィジャヤ王国(マレーシア)も唐王朝へ朝貢した。
唐王朝の滅亡
則天武后の時代 女帝の時代
7世紀末、高宗の皇后である則天武后が即位した。貴族はこれに反発した。そのため、則天武后は科挙官僚を積極的に採用した。これが貴族没落の始まりである。ちなみに、日本もこの時期に女帝が誕生した。持統天皇である。
玄宗皇帝前半
8世紀初頭、玄宗皇帝が即位。外戚を排除し政治の引き締めを行った。大きな成果は軍事改革である。府兵制を廃止し、傭兵を雇う募兵制を導入。さらに節度使という役職を作った。
背景は、均田制の崩壊である。府兵制は国民に兵役の義務を負わせるものである。しかし、重税や軍役で苦しむ農民は田畑を捨て逃亡した。
彼らは、豊かな農民が隠れて所有した田畑で小作人とし働いた。豊かな農民がのちの新興地主層になる。
一方、農民の逃亡により、唐王朝は税収が減少するとともに、軍人も減少した。そのため、傭兵を雇うようになった。これが募兵制である。
節度使とは、辺境地域の軍の司令官である。節度使は、給料はなく軍隊も自前で調達しなければならなかった。唐王朝は、給料と軍事費のかわりに辺境地域の徴税権を与えた。
玄宗皇帝後半 楊貴妃に溺れる
8世紀半ば、玄宗皇帝の晩年。世界三大美女にひとり楊貴妃を后に迎える。これにより、外戚になった楊一族が政治の実権を握るようになった。
このころ、イスラム勢力(アッバース朝)が中央アジアへ進出。唐王朝はタラス河畔の戦いに敗北。唐王朝は中央アジアから撤退した。これにより、中央アジアのイスラム化が進んだ。
同じ頃、外戚の楊一族の政治に不満を持つものもあらわれた。節度使の安禄山による安史の乱である。安史の乱は8年にもわたり、トルコ系騎馬民族のウイグルの支援でようやく鎮圧した。
この安史の乱により、地方の節度使は独自の政治を行うようになった。そのため、節度使は藩鎮と呼ばれるようになった。
唐の再建と滅亡
節度使の導入や安史の乱で唐王朝の財政は大きく傾いた。8世後半に入ると、税制を改めた。租調庸制から両税法に変更した。また、塩の専売を強化した。
両税法とは、均田制の崩壊を認め、実質土地の所有者に所有している土地に応じで夏と秋に税金を課す方法へ改めた。これにより新興地主層が登場した。
9世紀後半、塩の密売の取り締まりを強化。これにより、黄巣の乱が発生。全国に広がった。
五代十国の戦乱期
ここでは、10世紀の中国の戦乱期を見ていきます。この時代は、五代十国時代といいます。
9世紀末、辺境地域は、ウイグルや吐蕃などの異民族にうばわれ、中国の大部分も藩鎮が独自政権を敷いていた。そのため、唐王朝は黄河流域を収める地方政権になっていた。
9世紀末、節度使の朱全忠によって黄巣の乱がようやく鎮圧した。朱全忠は、中国最大の都市である開封を唐王朝から得た。10世紀初頭、朱全忠は唐の皇帝から禅譲をうけて皇帝になった。都は開封に移った。この後、宋王朝までに5つの王朝が成立した。これが五代である。
一方、地方では藩鎮(元、節度使)がおのおので領土争いを行っていた。主な藩鎮は、10ぐらいであったので十国といわれた。
五代十国の戦乱で、多くの貴族は没落した、代わりに両税法によって新たに地主として認められた新興地主層が台頭した。新興地主層は佃戸(でんこ)とよばれる小作人を雇って、小作料で生活をするようになった。
五代十国の戦乱期は、周辺諸国の政治や経済に大きな影響を与えた。日本もその一つである。日本は9世紀末に遣唐使を廃止。唐王朝のとの交流が亡くなり、国風文化が成立した。