北虜南倭
16世紀後半、明王朝は、風前の灯火であった。北からは騎馬民族が侵攻。南では後期倭寇による闇貿易が横行した。この時代に入ると、ポルトガルやスペインも参加するようになった。明王朝は、ポルトガルにマカオの居住権を与えた。
貿易の自由化
68年、張居正が内閣大学士(15世紀前半永楽帝が作った役職)に就任。海禁政策(14世紀、洪武帝が実施)を停止した。これにより、江南の闇貿易は合法化された。このころになると、中国の貿易商人の中には、東南アジアへ移住するものもあらわれる。この結果、東南アジアに中国人町が形成され始める。北方騎馬民族のアルタン=ハンと和議を結び交易所を開設した。
銀の流入と税制改革(一条鞭法)
この時代は、日本の石見銀山(日本銀)やスペイン領アメリカ大陸の銀(メキシコ銀)が大きな輸入品となった。一方輸出品は生糸や陶磁器であった。景徳鎮(けいとくちん)は陶磁器の代表例である。
銀の流入に伴い税制も変更し、唐代後期の8世紀から続いていた両税法から税や賦役が銀での納付に統一された(一条鞭法)。また、生糸や陶磁器が売れるようになると上海などの長江下流域では、工業が盛んになり、かつての穀倉地帯は綿花や桑の栽培に変った。その結果、コメの生産拠点は長江の中流域に変った。また、銀の流入は、農民の貧富の差の拡大をもたらした。そのため、小作料引き下げを求める農民闘争が盛んになった。そのため、江南の地主層は武装化した。武装化した地主層は、17世紀、明王朝を滅亡させる。
農民の貧富の差の拡大は思想にも反映された。儒教では、王陽明が活躍。知行合一に代表される陽明学がさかんになった。陽明学は江戸時代に日本に伝わる。陽明学者としては大塩平八郎が有名だが、吉田松陰を通して幕末の志士にも伝わり、明治維新を思想面で支えた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵
16世紀後半、日本は豊臣秀吉に統一されると92年朝鮮半島の李氏朝鮮へ出兵した。明王朝は李氏朝鮮に対し援軍をおくった。98年日本で豊臣秀吉が病死すると、撤兵した。
しかし、明王朝は、朝鮮出兵や貧富の格差により頻発する反乱で17世紀に入ると間もなく滅亡した。
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