イヴァン4世の内政
常備軍の整備
16世紀後半は、イヴァン4世(雷帝)の時代である。イヴァン4世は、皇帝権の強化を図っていた。常備軍を整備し、議会を設置した。対外戦争の敗戦で一時退位させられた。しかし、すぐに皇帝に復位。反皇帝派を粛清。皇帝権の強いロシアはこの時完成した。
農奴制の基礎を築く
このころ、ロシアは地主層と小作人(地主に地代を払った農業をを行うもの)に分かれた。当時の小作人は農奴と呼ばれた。イヴァン4世は農奴制を強化する法律を禁止した。農奴の移動の禁止と逃亡農奴をかくまうことを禁止した。
この農奴制に反発するものもいた。ロシア南部(黒海の北の穀倉地帯)の人々である。当時、彼らはコサックと呼ばれていた。この地域には、北部(モスクワなど)の農奴が多く逃げ込んでいた。
領土の拡張
東欧の国々
イヴァン3世は、皇帝権を強化しなければならない事情があった。これがリヴォニア戦争である。バルト海沿岸地域をめぐるポーランドとの戦争である。ポーランドは、北欧の大国スウェーデンを味方につけた。この時、イヴァン4世は、イギリスのエリザベス女王に支援を求めたが、これは実現しなかった。ロシア帝国はこの戦争に敗北した。
ポーランドは、このあとヤゲヴォ朝が断絶。選挙王制の時代に入る。
また、ポーランドを支援したスウェーデンは、17世紀前半のドイツ三十年戦争でさらに名声を上げる。
オスマン帝国
オスマン帝国は、ロシア南部のトルコ系のイスラム国家である。15世紀半ば、スレイマン1世の全盛期を迎えていた。
オスマン帝国は、農奴制強化でコサックが反乱を起こすとこれを支援した。そのため、イヴァン4世は一時退位することなった。
しかし、スレイマン1世が亡くなると、南ロシアのクリミアへ侵攻した。
コサックのシベリア開拓
イヴァン3世は、元キプチャク=ハン国(モンゴルの4ハン国の一つ)から分裂した2つの国を併合した。カザン=ハン国とアストラハン=ハン国である。これにより、ロシアはカスピ海北部まで国土を拡張した。
また、コサックのイェルマークを使ってシベリア開拓を開始した。
リューリク朝の断絶
イヴァン4世が亡くなると、強い皇帝が現れなかった。まもなく、リューリク朝は断絶。貴族同士の内乱の時代となった。この内乱は17世紀初頭のロマノフ朝成立まで続く。
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