1950年代のアメリカ アイゼンハワー大統領と朝鮮戦争

1950年代、日本は朝鮮特需によって順調に復興の道を歩み続けた。朝鮮戦争で始まった50年代は、米ソ関係は良好であった。しかし、50年代の終わりごろになるとソ連の軍事技術が向上は米ソ関係は再び悪化した。

共和党 アイゼンハワー大統領

第二次世界大戦の英雄

 アイゼンハワー大統領は、第二次世界大戦でアフリカ・ヨーロッパ戦線で活躍した軍人である。国民の人気が高く。52年の大統領選挙で勝利した。

スプートニクス=ショック

 56年、ソ連のフルシチョフ書記長がスターリン批判を実施。これにより、米ソの平和共存路線ができた。しかし、ソ連の軍事技術は進んだ。大陸間弾道ミサイルの完成や人工衛星の打ち上げである。

 そのよう中、中米キューバで社会主義革命(キューバ革命)がはっせい。米ソ関係は再び緊張状態に入った。

日米安保改定

 米ソ関係の深刻化に合わせて、アイゼンハワー大統領と日本の岸首相は安保改定を行おうとした。これに対し、学生の反対運動が過激化した。そのため、アイゼンハワー大統領の訪日は中止された。

50年代の繁栄

 第二次世界大戦後、唯一戦火を浴びなかったことで産業基盤を維持することができた。アメリカ好景気の時代が続いた。その象徴は「テレビ、プレスリー、マクドナルド」であった。ディズニーランドができたのもこの時期である。さらに、クレジットカーだが登場した。

黒人差別の問題

 世界大戦が終わると、マイノリティ(少数派)の意見が尊重されるようになる。第一次世界大戦のときは、女性参政権であった。今回は黒人差別問題である。

 50年代ごろから、黒人差別の問題が大きくなった。黒人差別の問題は南部の州で強かった。
 南部ルイジアナ州でのバスボイコット事件を機に黒人差別の問題が大きくなった。
 最高裁で、黒人の教育差別に違憲判決。連邦軍に守られて黒人生徒が投降した。

アインシュタイン

 アインシュタインは、ドイツ出身の科学者である。アインシュタインは55年に亡くなった。

 20年代、相対性理論でノーベル賞を受賞。しかし、30年代にナチス政権が成立するとアメリカへ亡命。打倒ナチス政権のためにマンハッタン計画に参加した。しかし、原爆が完成したのはベルリン陥落後であった。原爆は、ドイツではなく日本に落とされた。

 戦後は、核兵器・核戦争の廃絶を訴えた。55年第五福竜丸事件が起こるとラッセル=アインシュタイン宣言を出した。しかし、その直後に亡くなった。

アイゼンハワー=ドクトリンと第二次中東戦争

 アイゼンハワー大統領は、朝鮮戦争やインドシナ戦争の介入失敗でアジアへの軍事介入をやめた。56年の第二次中東戦争も介入しなかった。

 第二次中東戦争以降、中東では親ソ政権が次々成立した。イラクではイラク革命が勃発。親米の王政が倒れ、共和制へ移行し、親ソ政権が成立した。これはアイゼンハワー大統領に脅威を与えた。そのため、58年には、レバノン暴動に派兵した。

第五福竜丸事件

 アメリカは、54年ビキニ島で核実験を行った。その時、たまたま日本の漁船が通りかかり、被ばくをしてしまった。この事件により、原水爆禁止運動が盛んになった。翌55年、日本の広島で、第一回原水爆禁止世界大会が行われた。

中欧とジュネーブ四巨頭会談

 中欧は、ドイツとオーストリア、チェコスロヴァキアで構成されている。ドイツは米ソ英仏で分割統治され、オーストリアは共同管理とされた。そのような中、チェコスロヴァキアで共産党政権が樹立された。ドイツとオーストリアの戦後処理が問題となっていた。

 54年のパリ協定で西ドイツの主権を回復させた。西ドイツはNATOに加盟した。翌55年、戦勝国4か国(米ソ英仏)による首脳会談(ジュネーブ四巨頭会談)。オーストリアが中立国として独立を回復した。この背景には、第三世界の台頭がある。この会議の前に、アジア=アフリカ会議が行われた。これはインドのネルー首相と中華人民共和国の周恩来首相の会談によって決まったものである。

ジュネーブ会議と第三世界の台頭

 53年、朝鮮戦争は休戦した。その背景には、スターリンの死とアメリカの水爆実験成功があった。

 第二次世界大戦後、ベトナム(東南アジア)で共産党による独立戦争が勃発した。インドシナ戦争である。54年、インドシナ戦争は休戦した。

 ジュネーブ休戦協定で、ベトナムは南北に分割された。北ベトナムは共産党政権が成立。南ベトナムは親米政権が成立した。翌55年、東南アジアの親米政権によって軍事同盟が結ばれた。SEATO(東南アジア条約機構)である。

 ジュネーブ会議には、中華人民共和国やインドなども参加した。中華人民共和国の周恩来首相とインドのネルー首相が会談。平和五原則を発表。ここから第三世界の台頭が本格化した。

巻き返し政策 と 赤狩り

 52年の大統領選挙でアイゼンハワー大統領は反共産主義を掲げて勝利した。50年に始まった朝鮮戦争によって、アメリカ世論は反共産主義になった。この大統領選挙のころから共産主義者が次々告発された。これは政治分野だけでなく、映画などの文化会まで広まった。ハリウッドでこれを行っていた人の中に、後のレーガン大統領もいた。政権にいた民主党スタッフにも告発されたものがいた。

 アイゼンハワー大統領が就任すると、対ソ連外交を転換した。トルーマン時代の封じ込め政策から、巻き返し政策へ転換した。封じ込め政策は、資本主義国家の共産化の防止であった。しかし、巻き返し政策はさらに踏み込んで、ソ連陣営の共産党政権の民主化に主軸を置いた。

 具体的には、韓国やフィリピン、オーストラリアなどの親米国家と軍事同盟を締結していった。

 52年、イギリスが核実験に成功した。同じ年、アメリカは水爆実験に成功した。

民主党 トルーマン大統領

サンフランシスコ講和会議

概略

サンフランシスコ講和会議は、第二次世界大戦における日本の講和条約である。この会議で日本は主権を回復する。この会議は朝鮮戦争真っただ中の51年に行われた。

参加国と当時の国際情勢

 朝鮮戦争中であるため、韓国と北朝鮮は当然不参加である。韓国とは65年の日韓基本条約で国交を樹立したが、北朝鮮とは現時点でも国交はない。

 中国は、中華人民共和国(北京に拠点を置く毛沢東の共産党政権)と中華民国(台湾を拠点とする蒋介石の国民党政府)のどちらを正当とするかで米ソは対立していた。そのため、両政府ともサンフランシスコ講和会議に呼ばれなかった。

 ソ連と対立するユーゴスラヴィアやアメリカと対立するインド・ミャンマーは招待されたが参加しなかった。

ソ連はなぜ調印しなかったのか

 ソ連は、国境問題と在日米軍の駐留問題で対立。調印を拒否した。これに東側陣営のポーランドチェコスロヴァキアが同調した。

日米安保条約

 サンフランシスコ平和条約の後、日本とアメリカは別途日米安全保証条約を締結。米軍を引き続き、日本に駐留することが可能になった。

冷戦 第2R 朝鮮戦争

 東アジアの朝鮮半島は、第二次世界大戦期までに日本が統治していた。日本が敗戦すると、親ソの北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と親米の韓国(大韓民国)である。

 49年、東アジアで事件が起きた。毛沢東(中国共産党)の中華人民共和国が成立した。さらに、同じ年ソ連は核実験に成功した。

 これにより、朝鮮半島のパワーバランスが崩れた。北朝鮮は、韓国へ侵攻した。朝鮮戦争の始まりである。

 トルーマン大統領は、国連軍の派遣を求めた。この時、ソ連は欠席。その他の常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、中華民国(台湾の蒋介石国民党政権))が賛成。国連軍の派遣が決まった。

 さらに、トルーマンは日本への統治政策を大きく転換させた。ソ連などの社会主義国を外して、51年サンフランシスコ講和会議で日本の主権を回復した。この時、日米安全保障条約を締結した。警察予備隊(のちの自衛隊)を結成された。

コメント

  1. […]  この問題は、1950年代から1960年代の公民権運動につながる。 […]

  2. […] マッカーシーは、アメリカの政治家 → × […]

  3. […]  49年4月、西ヨーロッパ条約機構にアメリカなどが参加。NATO(北大西洋条約機構)が成立した。アメリカはそれまで軍事同盟には参加していなかった。50年代以降、アメリカを中心とした軍事同盟が次々成立する。 […]

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