1940年代後半のアメリカ トルーマン大統領と冷戦

1940年代後半、第2次世界大戦が終結。米ソ冷戦へ移行した。この冷戦初期を指揮したのは、民主党のトルーマン大統領である。今回は、終戦から朝鮮戦争勃発までの冷戦初期の過程を見ています。

50年代のアメリカ

 50年に始まった朝鮮戦争をきっかけに、反共産主義の世論が大きくなった。アメリカ全体で赤狩りが始まった。また、第二次世界大戦で、アメリカの50年代の繁栄を得た一方で、黒人の権利拡大運動(公民権運動)が盛んになった。

民主党 トルーマン大統領

 民主党トルーマン大統領は、前大統領F=ローズヴェルトの病死にともない、45年の第二次世界大戦中に大統領に就任した。52年に共和党アイゼンハワー大統領に政権交代が行われるまで続いた。

冷戦第2R 朝鮮戦争

 49年、ソ連の影響力は拡大した。ソ連は核実験に成功。中国では毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国建国宣言を行った。

 このバックグラウンドを背景に、金日成(キムイルソン)率いる北朝鮮(朝鮮民主主義国)が李承晩(リショウバン)率いる韓国(大韓民国)へ侵攻した。朝鮮戦争の始まりである。

 トルーマン大統領は、国際連合に国連軍の派遣を要請した。ソ連は拒否権を行使すれば国連軍の派遣を中止できた。しかし、ソ連はこれを行使せず棄権をした。そのため、国際連盟ではその他4か国の常任理事国(アメリカ、イギリスフランス、中華民国<台湾>)の賛成で国連軍の派遣が決まった。

中華人民共和国の建国

中華人民共和国と朝鮮半島

 中国は、日本軍が撤兵すると、英米が支援する国民党(蒋介石)と、ソ連が支援する共産党(毛沢東)の内戦が再燃した。

 この内戦は共産党が勝利。49年10月、毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言した。一方、国民党(蒋介石)は台湾へのがれ中華民国政府を名乗った。

 トルーマン大統領は、中華人民共和国の建国を承認せず、台湾の中華民国を正式な国家とした。そのため、蒋介石が国際連合に参加した。中華人民共和国が国際連合に参加したのは70年代のニクソン大統領の時代で、国交が成立したのは、70年代末のカーター大統領のころである。

ソ連、原爆実験の成功

 49年8月、ソ連は核実験に成功。翌9月ソ連はこれを公表した。10月には、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が成立。
 ソ連の核実験成功は中華人民共和国の建国や朝鮮戦争の勃発へつながった。

冷戦第1R ベルリン封鎖

チェコスロヴァキアの軍事クーデター

 48年になると、米ソ冷戦は中欧に舞台が移った。その始まりは、48年2月の中欧チェコスロヴァキアで軍事クーデターである。前47年9月に成立したコミンフォルムが共産党政権を樹立した。

 翌3月、ヨーロッパのアメリカ陣営はNATOの前身となる反共軍事同盟を結成した。西ヨーロッパ連合条約である。

ベルリン封鎖へ

 6月、冷戦の舞台はチェコスロヴァキアからドイツへ移った。米は、ソ連の社会主義改革を警戒して通貨改革を行った。ヤルタ会談(45年2月)に基づいて設立された管理理事会を無視した政策である。ソ連はこれに対抗するため、西ベルリンを封鎖した。(ベルリン封鎖)。アメリカなどの西側陣営は、ベルリン大空輸作戦で対抗した。

 ドイツは戦後、ヤルタ会談に基づいて米英仏ソの4か国分割統治された。東側はソ連が、西側は米英仏が担当した。ベルリンは東ドイツの真ん中にあったが、この地域は別途4分割された。そのため、西ベルリン(ベルリンの西側陣営担当地域)は飛び地になっていた。

 トルーマン大統領は、48年11月の大統領選挙に勝利した。

NATOの誕生

 年が変わって49年1月、ソ連は、マーシャル=プランに対抗して、経済協力団体コメコンを結成。

 49年4月、西ヨーロッパ条約機構にアメリカなどが参加。NATO(北大西洋条約機構)が成立した。アメリカはそれまで軍事同盟には参加していなかった。50年代以降、アメリカを中心とした軍事同盟が次々成立する。

 49年5月、ソ連はギブアップ。ベルリン封鎖を解除した。同じ月、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立した。

トルーマン=ドクトリン

トルーマン=ドクトリンと巻き返し政策

 47年、トルーマン大統領は、議会に対して外交方針を演説した。トルーマン=ドクトリンである。46年11月の中間選挙の敗北で、議会は野党共和党が過半数を占めていた。

 トルーマン大統領は、この演説で東欧諸国の共産化の拡大防止に動くことを説明した。(封じ込め政策)具体的には、ギリシャ内戦への介入の宣言である。

 ギリシャ内戦は、ギリシャ王室とギリシャ共産党との戦いである。ソ連がギリシャ共産党を支援していた。しかし、イギリスのアトリー労働党内閣はギリシャ王室の支援をやめた。トルーマン大統領は、撤退したイギリスの代わりにギリシャ王室を支援することにした。これにより、内戦はギリシャ王室側の勝利に終わった。

マーシャルプラン~経済復興政策~

 共産党の躍進は、ソ連の軍事力ではなかった。資本主義への不信である。第二次世界大戦で荒廃したヨーロッパは、コロナショックを受けている現在(2020年)以上に困窮していた。その不振は共産党の躍進に向かった。イギリスフランス、イタリアでは社会主義思想に近い左派政権が与党になっていた。

 7月、トルーマン大統領は、この状況を打開するため経済支援策を出した。これがマーシャル=プランである。マーシャルプランとは戦後復興のためのアメリカの経済支援である。これは、西側諸国だけでなく、東側諸国も対象とした。ポーランドなどの一部の東側諸国も受け入れる様子を見せた。

ソ連、コミンフォルムで対抗

 9月、ソ連(スターリン書記長)は、43年に解散したコミンテルンに代わるコミンフォルム(共産党情報局)を結成した。目的は、マーシャル=プランで西側諸国へ流れるのを阻止するためである。実際、ポーランドなど、マーシャル=プランを受け入れようとした指導者は失脚した。このコミンフォルムには、フランス共産党やイタリア共産党も参加した。翌48年2月、コミンフォルムは、チェコスロヴァキアの軍事クーデターを引き起こした。

GATTの成立

 10月、GATT(関税と貿易に関する一般協定)が成立した。30年代の英仏のブロック経済政策が日独伊のファシズム政権を生んだという反省から誕生した。ただ、これは表向きの理由である。トルーマン大統領の本音は、英仏植民地にアメリカ産の工業製品を売りたいことにあった。

 GATTによって、アメリカは世界中に製品を売れるようになった。しかし、70年代になるとGATTの負の側面が出てきた。第三世界の台頭により石油利権を失った。さらに、日本や西ドイツなど旧ファシズム国家の工業製品がアメリカのメーカーを脅かす存在になった。

 GATTは、90年代のWTOへ引き継がれていく。

鉄のカーテン演説

 46年、アメリカでは中間選挙が行われる年である。中間選挙とは、大統領選挙のない偶数の年に行われる連邦議会の選挙である。

 この年の3月、イギリス前首相チャーチル氏がアメリカでソ連の恐ろしさについて演説した。「鉄のカーテン」演説である。アメリカ世論は、「反ソ連」一色となった。

 イギリスは、45年7月の総選挙でアトリー労働党政権が成立していた。

 11月の総選挙では、野党共和党が勝利。トルーマン大統領は外交方針を転換。翌47年、トルーマン=ドクトリンでソ連と対決姿勢を明確にした。

第二次世界大戦終結

国際連合の成立

 日本が降伏して2か月後の45年10月、国際連合が成立した。本部はアメリカのニューヨークに置かれた。国際連合は4か月前の6月に採択された国際連合憲章に基づいて組織づくられた。

 国際連合は、全加盟国が平等に参加する総会と、常任理事国5か国と2年任期の非常任理事国10か国からなる安全保障理事会(安保理)で構成された。常任理事国は特権として拒否権を持った。拒否権を行使された場合、他14か国が賛成しても否決されることになった。

 常任理事国は、アメリカ、イギリスソ連の他に、フランス中華民国(蒋介石)が政権を担った。ソ連のスターリンは、西側陣営であるフランスと中華民国を入れる代わりに要求したのが拒否権であった。

 国際連合は、大きく3つの点で国際連盟と異なっていた。一つ目は、全会一致の原則を外したことである。国際連盟は全会一致の原則があったためほとんど機能をしなかった。2つ目は、武力制裁が行える点である。国際連盟は武力行使ができないため、決議を強制する力がなかった。3つ目は、大国の優遇である。国際連盟は、アメリカが参加せず。日本も満州事変で脱退した。そのため、仮に武力行使できたとしてもアメリカや日本を抑止する力はなかった。実際、日本の離脱後にドイツも離脱、ドイツの再軍備宣言につながった。

 国際連合は、様々な下部組織を作った。経済社会理事会、UNESCO(国際教育科学文化機関、世界遺産の決定などを行っている。)、ILO(国際労働機関)、WHO(世界保健機関)などである。

日本の降伏

 日本は、7月26日のポツダム宣言を黙殺した。これは、ソ連(スターリン)を仲介とした和平交渉を行おうとしたためであった。8月6日、トルーマン大統領は広島への原爆投下を指示した。8月8日、ヤルタ協定に基づいてソ連が日ソ中立宣言を破棄。満州や千島列島へ侵攻した。ここで、日本はソ連が敵であったことを知ることとなった。8月9日、長崎に原爆を投下した。

 8月14日、御前会議でポツダム宣言を受諾し、日本軍の無条件降伏を決定した。8月15日玉音放送で日本国民に知らされた。9月2日、アメリカ艦隊ミズーリ号の上で休戦協定に調印した。

 日本では、8月15日を終戦記念日としているが、世界的には9月2日を戦勝記念日としている。これが北方領土問題の一要因となっている。

ポツダム会談

 6月、サンフランシスコ(アメリカ)で国際連合憲章が現加盟国50か国によって採択された。

 翌7月17日、米英ソの首脳は、ドイツのベルリン郊外のポツダムに集まった。ポツダム会談である。ここでは2つのことが話し合われた。日本の無条件降伏勧告とドイツの戦後処理である。

 トルーマン大統領にとっては最初の首脳会談であった。ソ連の首脳はスターリン書記長であった。イギリスは保守党チャーチル首相であった。しかし、ポツダム会談中に総選挙があり、保守党は敗北。労働党アトリー首相が引き継いだ。

 トルーマン大統領はこの時、2つの衝撃的な事実を知らされる。1つ目は、翌8月8日のソ連の対日参戦である。この時点になると日本の敗戦は時間の問題であった。トルーマン大統領もアメリカ主導で日本の統治が行えるものと考えていた。しかし、ソ連参戦があれば、当然ソ連も日本の戦後統治に介入することは確実である。そのため、トルーマン大統領はソ連参戦(翌8月8日)前に日本が降伏させる必要があった。2つ目は、原爆の完成である。これにより、ソ連の力を借りなくても日本を降伏させることができることを確信した。

 7月26日、日本に対して降伏条件としてポツダム宣言を発表した。この時点で日ソ中立上宣言は有効であったため、スターリン書記長(ソ連)はこの宣言に参加せず、代わりに蒋介石(中華民国)が署名した。本来の目的は、対日戦争でソ連を戦勝国にしたくなかったのである。しかし、このメッセージは日本にバッドメッセージを伝えてしまった。それはソ連を仲介とした和平交渉に向かったことである。当然、スターリンはまともに仲介をせず、8月8日以降まで戦争を引き延ばした。

 ポツダム宣言を発表すると、ドイツの戦後処理についての交渉が始まった。そして、8月2日にポツダム協定が締結された。この内容は、2月のヤルタ会談の内容が踏襲された。米英仏ソの分割統治を行い、その政策はベルリンの管理理事会が決定した。

ベルリン陥落とF=ローズヴェルトの死

 45年4月、アメリカ大統領F=ローズヴェルト大統領が病死した。F=ローズヴェルト大統領は、民主党の政治家である。世界大恐慌と第2次世界大戦を戦った。そのため、異例の4期16年(生存していれば48年まで大統領になることとなった)を務める予定であった。しかし、4期目の45年に入ると、体調を崩し始めた。そのよう様子はヤルタ会談(45年2月)の集合写真にもあられていた。

 当時、アメリカ合衆国憲法では、再選についての規定はなかった。しかし、初代大統領ワシントンが3選を固辞した逸話から大統領は2期8年とされた。現在、合衆国憲法に2期8年と規定されている。(1951年に制定)

 F=ローズヴェルト大統領の病死によって、副大統領のトルーマンが大統領に就任した。

 同じ頃、ヨーロッパではドイツへの侵攻が始まった。英米は西(フランス)から、ソ連は東(ポーランド)から攻撃を開始した。4月20日、ソ連が先にベルリンに突入。4月30日、ヒトラーは自殺。5月6日ドイツは無条件降伏をした。

 同じ頃、日本の敗戦も濃厚になっていた。4月には、米軍が沖縄へ上陸。5月には東京大空襲がおこなれた。

 第二次世界大戦が終結に向かう4月25日、連合国50か国がアメリカ西海岸のサンフランシスコに集まった。2月けのヤルタ会談に基づいて国際連合設立の会議が開かれた。この会議は2か月かかり、6月26日国際連合憲章が採択された。

 

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