14世紀のイギリス(プランタジネット朝)百年戦争と黒死病

 14世紀、日本は鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱の時代である。
 イングランドは、フランスとの百年戦争への突入した。この時代ローマ教皇の衰退が見られた時期である。教皇のバビロン捕囚ではじまり、教会大分裂が起きたのもこの時代である。14世紀はイングランドプランタジネット朝の時代である。しかし、14世紀末にプランタジネット朝が幕を閉じ、ランカスター朝が成立した。

15世紀のイギリスとは

 15世紀、イングランド百年戦争の真っただ中にあった。この百年戦争の最中にランカスター朝が成立した。ランカスター朝がフランスとの百年戦争に敗北すると、ヨーク朝が成立した。これにより、ランカスター家VSヨーク家のイングランド内戦が勃発した。ばら戦争である。ばら戦争テューダー朝の成立によって幕を閉じた。

 今回は、2つの問いに答えることになる。1つは、なぜ、百年戦争が勃発したか。2つ目は、なぜ、プランタジネット朝が崩壊してランカスター朝が成立したか。この2点をについてみていくことになる。

リチャード2世 ~プランタジネット朝の終焉~

議会が、リチャード2世を廃位

 リチャード2世は、ワットタイラーの乱の鎮圧で人望を集めた。しかし、貴族の土地を勝手に没収するなどして貴族の反感を集めた。これにより、議会はリチャード1世を廃位した。

 イングランド議会は、新しいイングランド国王にプランタジネット朝の分家ランカスター家のヘンリ4世を即位させた。これにより成立したのがランカスター朝である。

 14世紀はヨーロッパだけでなくユーラシア大陸全体で病気の蔓延で経済は停滞していた。これにともない世界中で王朝交代が起こった。イギリスは14世紀末にプランタジネット朝が終焉し、ランカスター朝が成立した。フランスは少し早く、14世紀初頭にカペー朝からヴァロワ朝へ移行した。日本も鎌倉時代から室町時代へ移行。中国もモンゴル系の元王朝が終わり、漢民族系の明王朝が成立した。韓国も高麗から李氏朝鮮が成立した。

ワット=タイラーの乱で新階級ヨーマン(解放農民)が誕生

 77年、エドワード3世が亡くなると、孫のリチャード2世が即位した。若干10歳の時である。ちなみに、この年は教皇のバビロン捕囚が終わった年である。

 リチャード2世は、百年戦争の戦費調達のため、人頭税の導入を導入した。これに対し、農民は反発した。これにより農民反乱ワット=タイラーの乱が勃発した。反乱軍は、ロンドンを制圧。大司教や有力政治家は殺害され、大商人の屋敷は焼き討ちされた。しかし、リチャード2世は、一時幽閉されたが最終的に反乱軍を鎮圧させた。

 しかし、この反乱によって農民の解放が進んだ。これを得て自由を得た農民は、ヨーマンとよばれた。このころ、イングランドでも三圃制農業が普及した。農業生産性が高まった。ヨーマンの中から富裕層も誕生した。彼らは、没落した貴族ともに新しい階級を誕生させた。彼らは、16世紀後半のヴィクトリア黄金期を支えたジェントリと呼ばれた。ジェントルマンの語源である。

黒死病(ペスト)の流行

 しかし、14世紀半ばに入るとヨーロッパでペストの流行が起きた。それまで、イングランド百年戦争を優位に進めていた。しかし、ペストの流行によって戦争を一時中断せざるを得なくなった。ペストの流行は、13世紀のモンゴル襲来時にアジアの病原菌が大量にヨーロッパにもたらされたためといわれている。
 ペストの流行で農民反乱が勃発した。フランスのジャックリーの乱とイングランドのワット=タイラーの乱である。 

ウィクリフと教会大分裂

教会大分裂

 教皇のバビロン捕囚は、77年神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)カール4世の尽力により終了した。77年、教皇グレゴリウス11世はローマへ帰還した。

 しかし、グレゴリウス11世は翌年に亡くなった。次の教皇を決める際にフランス人の枢機卿教皇を決める権限を持つ司祭)とイタリア人の枢機卿が対立。フランス人の枢機卿は再びアヴィニョンへ戻った。これにより、フランスのアビニョン教皇庁とイタリアのローマ教皇庁が併存する時代が続いた。これが大シスマである。

 ちなみに、日本はこの頃南北朝の動乱期である。教会大分裂南北朝の分裂期はほぼ同じ時代に行われたことになる。

プロテスタントの前身 ウィクリフ

 教会大分裂が起きたころ、イギリスのオックスフォード大学では新たなキリスト教の考え方が登場した。その中心が、ウィクリフであった。ウィクリフは聖職者が豪勢な生活を送っていることに疑問を感じ、聖書に立ち返ることを唱えた。のちに出てくるルター派の考え方の基礎になる。

 同じころ、神聖ローマ帝国内のボヘミア(現在のチェコ)でもフスが登場。ローマ=カトリックに対抗していた。

 ウィクリフとフスは、カトリックの考え方を批判した。しかし、15世紀初頭のコンスタンツ公会議で2人は異端とされた。

エドワード3世と百年戦争

百年戦争(フランス王位継承戦争)

 フランス=カペー朝が断絶すると、ヴァロワ家のフィリップ2世が即位しt。あフランス=ヴァロワ朝が成立した。しかし、これに対し意義を唱えたものがあった。イングランド国王エドワード3世である。

 これまでの歴史では、ローマ教皇がこの裁定を行っていた。しかし、百年戦争ではこれができなかった。それは、教皇のバビロン捕囚の真っただ中にあったからである。ローマ教皇はフランス国王の支配下にあった。エドワード3世は教皇のバビロン捕囚を終わらせる必要があった。

 また、エドワード3世はフランス国王の地位の他に狙っているものがあった。13世紀に奪われた大陸植民地である。特に重要視したのが、毛織物の名産地であるフランドル地方とワインの名産地であるアキテーヌ地方である。

なぜ、百年戦争が始まったのか。

 フランス国王フィリップ4世は悩んでいた。このままついていいって大丈夫だろうか。フランス国王は三部会(国会)を開いて国民の信をとった。国民はフランス国王を支持した。これにより起きたのが「教皇のバビロン捕囚」である。ローマ教皇は憤死。このたたりからフランス=カペー朝が断絶。

 フランスの王位継承権をめぐり、百年戦争が勃発した。

英語が公用語に

百年戦争は、当初イングランド優勢で戦争が展開した。イングランドは大陸のカレーを占領した。イングランドは、16世紀のメアリ1世の時代までカレーを支配し続けた。

 このころから、イングランド公用語は英語になった。それまで、イングランドはフランス語を公用語としていた。イングランド国王はもともとフランスの諸侯だったからである。しかし、フランスと戦争になることで、英語を使用するようになった。

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