1880年代の日本 大日本帝国憲法

 1880年代、日本では国会が開設された。その中心人物は、伊藤博文である。

1890年代の日本 日清戦争

 初期の帝国議会は混乱していた。しかし、議会制度を持つ国々はこのことは当然のことと認識していた。しかし、清王朝(中国)は明治政府が内乱状態と認識していた。

 朝鮮半島で農民反乱がおこると、明治政府(日本)と清王朝(中国)は日清戦争に入った。

第1回帝国議会

 89年の大日本帝国憲法が発布。翌90年、大日本帝国憲法に基づいて帝国議会選挙が行われた。野党の自由党と立憲改進党が過半数を占めた。野党は、減税を求めて国会は紛糾した。それでも何とか予算を通すことができた。

大日本帝国憲法、発布

 88年、憲法制定に専念するため伊藤博文が辞任。薩摩藩出身の黒田清隆が内閣総理大臣を引き継いだ。

 89年、大日本帝国憲法が発布された。これにより、明治政府は議会が承認した予算に基づいて動くことになった。

 アジアで最初の憲法は、76年オスマン帝国のミドハト憲法である。しかし、これは翌年、スルタンによって停止。スルタンの専制が始まった。この後、06年にイラン、12年に清王朝で憲法が制定された。

初代内閣総理大臣、伊藤博文

 85年、明治政府はイギリスで導入されていた内閣制度を導入した。当時のイギリスは、内閣について憲法には規定していなかったが慣習で議会第一党の党首を国王が首相に任命していた。大日本帝国憲法でも内閣の任命についての規定はない。

 初代内閣総理大臣には、旧長州藩の伊藤博文が務めた。初期のの内閣は旧薩摩藩と旧長州藩が交互に総理大臣を出していた。

 このころ、李氏朝鮮で内乱が発生。日本と清王朝は互いに援軍を出した。これにより日本と清王朝は一触即発の状態となった。しかし大事には至らず平和裏に撤兵した。この時、天津条約を日清両国は李氏朝鮮へ援軍を送る際は事前通告を行うこととなった。

伊藤博文の憲法調査

 伊藤博文は、国会開設の詔が出ると、憲法調査のためヨーロッパを視察した。10年ぶりのヨーロッパである。普仏戦争後の荒れたヨーロッパから一変し、ビスマルク外交で平和になったヨーロッパである。伊藤博文は、ヨーロッパ政治の中心であったビスマルク率いるドイツ憲法を見本にすることとした。

 一方、国内でも、国会開設の準備が民間レベルで始まっていた。自由民権運動の中心にいた板垣退助(土佐藩出身)は、自由党を結成。一方で、81年(明治十四年の政変)に失脚した大隈重信(肥前藩出身)は立憲改進党を結成した。このようにして明治政府と戦う野党勢力が成立した。

 国内の明治政府は、松方正義がインフレ抑制に尽力した。その中で誕生したのが日本銀行である。それまで、銀行は独自に紙幣を発行することができた。しかし、松方は紙幣の発行を日本銀行のみにした。一方で、増税や歳出削減を行った。

 デフレによって、地租の負担が急速に重くなった。当時の税制は所得に関係なく土地の価格に応じて決定されていた。そのため所得がさがっても納税額が変わらなかった。これにより、自由民権運動が盛んになった。一方で農業をやめて都市部に出るものも多くなった。彼らの多くが工場労働者として日本の工業化を支えた。

 さらに、国有財産の売却が進んだ。これにより誕生したのが、三菱、三井などの財閥である。

大学の設立ラッシュ

 このころ、野に下った大隈重信は早稲田大学を創設した。ほかにも駒澤大学や東洋大学が開校している。

国会開設の詔

 81年、明治政府で汚職スキャンダルが発生した。北海道官有物払い下げ事件である。これは税金で作った北海道の国有企業を安価で売却しようとした事件である。その買い手が元薩摩藩の武士五代友厚であったため、日本国民はこれを怒った。

 80年頃の明治政府は、戊辰戦争や西南戦争で財政難にあった。そのため、紙幣を乱発した。これにより、庶民は物価上昇に苦しんだ。その中で、汚職スキャンダルである。庶民は明治政府に反発した。

 この怒りで成長したのが、自由民権運動である。これは日本に国会を作ろうという政策である。その中心にいたのが明六政変で失脚した板垣退助(土佐藩出身)である。

 この時、明治政府は2つに分かれた。大隈重信(肥前藩出身)など、すぐに国会を開くべきと主張する派閥と、伊藤博文(長州藩)など、国会開設には慎重に行うべきと主張する派閥である。伊藤博文は70年代後半のミドハト(オスマン帝国)の失敗をしっておりより慎重になった。

 伊藤博文は、北海道官有物払い下げ事件の関係者やインフレの責任者を明治政府から追放した。このとき、大隈重信らを失脚させた。(明治十四年の政変)

 そして、国民をなだめるために、国会開設の詔を発表。十年以内に国会開設を行うことを約束した。

70年代の日本 維新の三傑の死

 70年代前半、岩倉具視や大久保利通などは南北戦争や普仏戦争が終結したばかりの欧米を視察した(岩倉使節団)。一方、国内では、西郷隆盛らの征韓論を唱えた。

 岩倉使節団が帰国すると、西郷隆盛ら征韓論派を明治政府から追放した(明六政変)。ここから、一気に富国強兵政策を進める。

 70年代後半になると、失業した武士の反乱が頻発した。その最大のものが西郷隆盛が起こした西南戦争である。西郷隆盛は西南戦争で戦死した。一方で、政府の中心にいた大久保利通は東京で暗殺された。おなじころ、木戸孝允も病死。明治維新を指揮した維新の三傑は亡くなった。これにより、明治政府の中心は伊藤博文などの第二世代が中心となった。

 

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