10世紀のビザンツ帝国 ブルガリア帝国の脅威

テマ制の復活

 テマ制とは、領土を軍管区に分け、それぞれに指揮官を置いた。指揮官は、軍隊の指揮権だけでなく、その軍管区の司法権や行政権も与えた。

 8世紀に入ると、指揮官の権限が大きくなり、半独立国のようになっていた。そのため、9世紀後半からテマの改革を子なった。具体的には軍管区の分割や中央軍の創設などである。これにより中央集権体制が復活した。

東方正教会とは

 ビザンツ皇帝は、コンスタンチノーブル教会のトップを兼ねていた。8世紀の聖像崇拝問題で、ローマ教会と対立した。コンスタンチノーブル側のキリスト教は東方正教会と呼ばれ、ローマ教会側をカトリックと呼んだ。11世紀にコンスタンチノーブル教会とローマ教会は互いに相互に破門した。

 9世紀、東方正教会は偶像崇拝を容認した。これにより、東西の和解のチャンスが訪れた。しかし、ブルガリア人が東方正教会に改宗するかカトリックに改宗するかが問題となった。

キエフ公国との同盟

 キエフ公国は、9世紀末に黒海の北にノルマン人が建国した国である。のちのロシアである。キエフ公国は、黒海を通じてビザンツ帝国と交易をするとともに、北のノブゴロド国を通じて北海商業圏との交易も行った。

 10世紀末、キエフ大公ウラディミル1世は、東方正教会に改宗。ビザンツ帝国と同盟関係になった。その同盟関係を強化するため、ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の娘を后に迎えた。ビザンツ皇帝は、ウラディミル1世とともに、ブルガリア王国を挟み撃ちにした。

ブルガリア王国

 ブルガリア人は、7世紀にバルカン島東部(黒海沿岸)に侵入したアジア系騎馬民族である。9世紀に東方正教会に改宗した。

  ブルガリアは、9世紀末にビザンツ帝国に勝利。10世紀にはバルカン半島の大部分を支配した。

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