7世紀のイギリス キリスト教の伝来

7世紀、日本は飛鳥時代聖徳太子の時代から大化の改新を経て天武・持統天皇の時代である。

 この頃、イギリスはアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。この時期にアングロサクソン人はキリスト教を信仰するようになった。

アングロ=サクソン七王国の戦乱期

 8世紀はアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。その中で8世紀最も力を持っていたのは、北部のマーシア国であった。
 アングロ=サクソン人は、5世紀にイングランドを征服。当時は国家が形成されていたなかったが、小国が乱立するようになる。6世紀に入ると7つの国へ絞られていった。この七王国をアングロ=サクソン七王国ヘプターキー)と呼ばれるようになる。
 さて、今回は、アングロ=サクソン七王国キリスト教が布教が始まる様子を見ていきます。
 

7世紀のヨーロッパ

 7世紀最大の出来事はイスラム教の成立である。それまで、中東はビザンツ帝国ササン朝ペルシアで分割されていた。6世紀、ビザンツ帝国はユスティアヌス帝の最盛期で、地中海の再統一を実現した。一方で、ササン朝ペルシアもホスロー1世の最盛期で、中央アジアのエフタルを滅ぼした時代である。しかし、7世紀にはいると、ササン朝ペルシアは滅亡。ビザンツ帝国も、穀倉地帯のシリア、エジプトや地中海の制海権イスラム教徒へ奪われた。

 ビザンツ皇帝レオン1世はこれに危機感を抱いた。そこで、「聖像禁止令」を出した。(ビザンツ皇帝はコンスタンチノーブル教会のトップを兼任していた。)「聖像禁止令」とは、キリスト関連の彫刻や絵画を作ることを禁止した法律である。これに独自路線を歩み始めたローマ教皇は反発した。なぜなら、当時のローマ教会の最大のミッションはゲルマン人への布教であったからである。ラテン語を読めないゲルマン人への布教には聖像は必要不可欠であった。この頃から、コンスタンチノーブル教会(東方正教会)とローマ教会(ローマ=カトリック)の対立は明確化してきた。

キリスト教の布教伝来

カンタベリー大聖堂

 6世紀末、ローマ教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人への布教を積極的に進めた。イングランドへ修道士が派遣された。彼らはイギリス南東部のカンタベリーに拠点を置いた。現在、ここにはカンタベリー大聖堂がある。修道士たちは南部のジュート人やサクソン人から布教を開始した。

 ちなみに、新興宗教の流行は戦乱期によく起こる。イングランドキリスト教伝来もアングロ=サクソン七王国の戦乱期に発生している。日本のカトリック伝来も16世紀の戦国時代に広まったし、中国の仏教伝来も、4世紀の五胡十六国時代に広まった。
 

アイルランドとイングランドの宗教対立

 イギリスの先住民(アイルランドウェールズスコットランド)はすでにキリスト教を信仰していた。特にアイルランドには修道院を中心として教会組織が確立していた。そのため、ローマ教皇をトップとしたイングランドの教会組織としばしば衝突した。

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