1850年代、日本ではペリーが来航。日米和親条約が締結された。そのペリーを派遣したアメリカはどのような状況にあったのだろうか。
南北戦争へ
60年の大統領選挙で、民主党は奴隷問題で分裂。奴隷制度反対派が共和党へ流れ、共和党リンカン大統領が当選した。
リンカン大統領が当選すると、南部の州がアメリカ合衆国から離脱。アメリカ連合国を建国した。これにより南北戦争が始まった。
奴隷問題と共和党結成
共和党の結成
52年の大統領選挙で民主党のピアース大統領が勝利した。54年ピアース大統領がカンザスネブラスカ法を成立させると、奴隷反対派は脅威を感じた。そして奴隷反対派が作った政党が現在の共和党である。共和党が成立したのはカンザスネブラスカ法が成立した54年のことである。
共和党が成立すると、分裂状態にあったホイッグ党が合流した。さらに、民主党反主流派もこれに加わった。共和党は北部と西部の産業資本家や農民、労働者が支持基盤となった。
60年大統領選挙では共和党リンカン大統領が勝利した。
共和党成立前のアメリカ政治
共和党成立前も、アメリカは2大政党制が成立していた。民主党とホイッグ党である。
民主党の支持基盤は農民であった。この農民は大きく2つに分かれた。南部と西部である。南部の農家は昔からの農家が多く、大規模な農場で黒人奴隷を使って経営を行った。一方で西部は新興の農民が多かった。
民主党の大きな主張は、保護貿易政策の反対と合衆国の権限の縮小である。19世紀前半、イギリスの産業革命によって国際的に農産物への需要は高まっていた。そのため、アメリカの農家はイギリスへ大量の農産物を売りたいと考えていた。そのため、保護貿易政策に反対した。また、民主党は合衆国や大統領の権限の縮小を求めた。とくに金融面では、合衆国銀行(中央銀行)の廃止を実行した。
一方、ホイッグ党は、イギリスの反王党派であるホイッグ党から名前をとった。反イギリス勢力がその中心であった。その中心は北部の商工業者であった。
ホイッグ党は、イギリスへ抵抗するため、軍事力強化と工業生産力強化を掲げていた。軍事力強化の面では、合衆国や大統領の権限を強化しようとした。工業生産力強化の観点では保護貿易政策(高関税政策)を進めた。
奴隷制度反対運動
奴隷制度反対運動が活発化した要因は、50年の逃亡奴隷取締法の改正である。その後、51年のストゥの『アンクルトムの小屋』が出版。54年のカンザスネブラスカ法成立。57年のドレッドスコット判決で奴隷制度反対運動はさらに加速した。
民主党政権
ピアース大統領とブキャナン大統領
52年大統領選挙で、奴隷問題でホイッグ党が分裂。民主党ピアース氏が共和党フィルモア大統領に勝利。56年大統領選挙も民主党ブキャナン大統領が勝利した。
奴隷制度禁止は憲法違反
トレッド=スコット判決とはどのようものだろうか。
共和党が成立した54年、自由州へ移住した黒人奴隷ドレッド=スコット氏が市民権を求めて連邦裁判所に提訴した。
これは、最高裁までもつれ込み、57年に棄却した。その際に自由州を容認したミズーリ協定は、奴隷所有者の財産権を侵害しているとして
奴隷制度禁止は住民投票で
奴隷制度反対運動を強化したカンザスネブラスカ法とはどのようなものだったのだろうか。
1820年、北部は自由州(奴隷制度禁止の州)、南部を奴隷州(奴隷制度を容認する州)とするミズーリ協定が採択された。54年のカンザスネブラスカ法は、このミズーリ協定を破棄して今後は住民投票で自由州か奴隷州かを決めることにした。
カンザスネブラスカ法を受けて、奴隷制度反対派は同54年、共和党を結成した。
日本の開国
53年、フィルモア大統領の国書を持参したペリーが日本(浦賀)に来航。翌54年、日米和親条約を締結。58年には日米通商修好条約を締結。東アジア市場への足掛かりを作った。
しかし、61年に南北戦争へ突入。アメリカは東アジア市場で後れを取るようになる。
この頃、ヨーロッパは
この頃、ヨーロッパでは19世紀最大の戦争クリミア戦争が展開されていた。
アメリカ=メキシコ戦争に敗北したメキシコは、近代化と自由化を求める運動が激化した。
ホイッグ党フィルモア大統領
フィルモア大統領とは
48年大統領選挙では、アメリカ=メキシコ戦争の英雄テーラー共和党候補が勝利した。しかし、50年に病死。後を引き継いだのがフィルモア大統領である。
奴隷問題でホイッグ党解党
フィルモア大統領は、カリフォルニアが自由州として認めてもらうために、民主党へ見返りを提示した。これが逃亡奴隷取締法の制定であった。
これに奴隷制度反対派はこれに反発。さらに、51年のストゥの「アンクルトムの小屋」で奴隷制度反対運動は強くなった。52年大統領選挙ではホイッグ党は敗北した。この法律により奴隷反対運動が活発化した。
カリフォルニア州成立
カリフォルニアは48年アメリカ=メキシコ戦争で獲得した。同48年、カリフォルニアでゴールドラッシュ。多くのアメリカ人がカリフォルニアへ移住した。
50年、カリフォルニアは州へ昇格することになった。ここで問題になったのがミズーリ協定である。カリフォルニア州は南北に細長い州であり、ミズーリ協定の境界線がカリフォルニア州のど真ん中を通ることになった。そのため、カリフォルニア州を自由州にするか奴隷州にするかで紛糾した。フィルモア大統領は、逃亡奴隷取締法制定と引き替えにカリフォルニアを自由州とすることにした。
ペリーを日本へ派遣
カリフォルニアの東側にはロッキー山脈がある。当時は陸路でカリフォルニアへ向かうことは困難であった。そのため、ニュヨークからカリフォルニアに向かうには、大西洋を横断し、アフリカの南(喜望峰)をまわり、インド洋を横断し、太平洋を横断する必要があった。
フィルモア大統領は、カリフォルニアへの航路や太平洋での捕鯨活動の観点から、太平洋に補給拠点を持ちたかった。そのため、フィルモア大統領は、ペリーを日本へ派遣した。
コメント
[…] 40年代後半、アメリカ=メキシコ戦争に勝利したアメリカは太平洋岸のカリフォルニアを獲得した。48年のゴールドラッシュでカリフォルニアの人口が急増した。そのため、アメリカは太平洋の管理について重要視するようになった。 […]
[…] この協定は、50年のカリフォルニア州の成立まで有効とされた。 […]
[…] 共和党は、奴隷制度反対派が1854年に結党。60年代の南北戦争の勝利で党勢を強めた。 […]
[…] クリミア戦争は、ヨーロッパ・中東はもとより東アジアも戦場となった。イギリス・ロシア両国は、この時期に日本に使者を送っている。 また、アメリカも混乱に乗じて、使者を送っている。ペリー来航である。 […]