カテゴリー
イギリス史

1850年代のイギリス クリミア戦争とパーマストン首相

パックス=ブリタニカ

 50年代~70年代はイギリスの黄金期である。その象徴は、51年のロンドン万国博覧会である。この絶頂期の女王がヴィクトリア女王の時代である。そのため、ヴィクトリア時代とも呼ばれる。
 50年代からのイギリスが黄金期を迎えられたのは、48年革命を平和裏に治めることができたためである。19世紀前半のフランスは相次ぐ市民革命で疲弊していた。18世紀末のフランス革命に始まり、七月革命二月革命で国力は衰退していた。
 一方で、イギリス国民もフランス国民と同じ不満を持っていた。しかし、イギリスは革命ではなく政権交代で乗り切ることができた。それを可能にしたのが立憲君主制である。イギリスでは政治は国王ではなく首相が担うようになっていた。そのため、政治に失敗したら首相を首にして新しい首相を擁立するだけで、国王自身は政治の責任を取る必要がなかった。

59年 ホイッグ党パーマストン首相 と自由党結成

 ダービー首相が提案した選挙法改正案を否決。これに伴い、ダービー首相は議会を解散させた。これに対し、ホイッグ党パーマストンはピール派と合同を決意。自由党を結成した。自由党は総選挙に勝利。パーマストン内閣が復活した。

60年 英仏通商条約

 パーマストン首相は、さっそくナポレオン3世と英仏通商条約を締結した。これにより、フランス産の安い農産物がイギリスに入るようになった。

自由貿易を求める2人

 パーマストンを率いる自由党ホイッグ党+保守党ピール派)は、ともに自由貿易によって、農産物価格の引き下げをもとめえていた。
 一方、ナポレオンを支持していたのはフランス農民である。保護貿易で国内の工業製品を守るよりもヨーロッパ中に農産物を売るほうが良いと考えていた。

フランスの工業化が遅れる

 これにより、フランスの工業化は遅れた。それが如実に表れたのは10年後の普仏戦争である。工業化を進めたビスマルク率いるドイツがナポレオン3世のフランスに勝利する。また、フランス蓄積した資本を自国の工業化ではなく対外投資に回した。エジプトのスエズ運河はその一例である。

60年 北京条約 ← アロー戦争

 そのころ、清王朝は天津条約の締結を拒否した。英仏連合軍は再び軍艦を天津に向け、北京を占領した。清王朝は北京条約を締結した。

 清王朝は外国公使の駐在をみとめいイギリスフランスとの対等外交を認めた。また、清王朝はさらに11港を開いた。北京近くの天津、長江の内陸部の港も含まれた。イギリスはこれにより長江流域をイギリスの勢力圏とした。このほかに、外国人の中国内地の旅行の自由、キリスト教布教の自由、アヘン貿易の公認も認められた。さらにイギリス領の香港の領土も拡大した。

 北京条約は、天津条約よりも英仏にとって有利な内容となった。開港地も北京に近い天津港が追加され、賠償金の額も増額された。

 この時、ロシアが仲介役を務めた。そのため、清王朝はロシアにウラジオストークを割譲した。これは新潟の向かい側である。新潟は日米修好通商条約で開港予定であったが延期された。

 清王朝は、北京条約を受けて1861年に総理各国事務衙門を設置した。これにより、清王朝は対等外交を認めるようになった。また、長江流域の開港については太平天国の乱終結後という条項が付いていた。そのため、パーマストン首相は、ウォードやゴードン率いる常勝軍を上海に派遣した。

58年 第二次保守党ダービー首相

 パーマストン首相は、57年の恐慌により、大きく支持を失った。さらに、ナポレオン三世の暗殺未遂事件の対応に失敗。これにより退陣した。

アジアへ進出

58年 インド直接統治

 イギリス海軍は、インド大反乱を鎮圧した。インド大反乱で担がれたムガル皇帝を廃位。ムガル帝国を滅亡させた。また、イギリス東インド会社を解散させた。インドの直接統治が始まった。

58年 天津条約(中国、清王朝

 英仏連合軍は、アロー戦争で清王朝に勝利した。英仏は清王朝に天津条約を突きつけた。条約締結まで進んだが、清王朝皇帝はこれを拒否。天津条約は成立しなかった。

58年 日英修好通商条約(日本、江戸幕府

 アロー戦争の清王朝敗北の報は、日本にも伝わった。このころ、日本は江戸時代末期である。井伊直弼は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好通商条約を締結した。


59年 ダーウィンの「種の起源

 ダーウィンは、太平洋のガラパゴス諸島で生物学研究を行っていた。その研究内容をまとめたのが「種の起源」である。「種の起源」が発表されたのがこの時期である。

59年 イタリア統一戦争

 イタリア(サルディーニャ王国)は、クリミア戦争を共に戦ったフランス(ナポレオン3世)と密約を締結した。オーストリアへ侵攻に協力する見返りに、後の南フランスにあたるサヴォイア、ニースをフランスに割譲する約束をした。イタリアはオーストリアに開戦。オーストリアに勝利し、イタリア北東部のロンバルディアを獲得した。このロンバルディアは6世紀から8世紀にかけてランゴバルド王国があった地域である。


55年 ホイッグ党パーマストン内閣成立

 ピール派は平和外交を進めていた。そのため、クリミア消極的であった。しかし、フランス側で参戦に踏み切った。これにより、廃止予定であった所得税が継続することになった。
クリミア戦争の泥沼化により、ピール派アバディーン首相が退陣。ヴィクトリア女王は、アヘン戦争を乗り切った外務大臣ホイッグ党パーマストンを首相にした。当初ピール派はパーマストン内閣を支持していた。しかし、クリミア戦争の対応をめぐりピール派と対立。

56年 パリ条約でクリミア戦争終結

 ホイッグ党パーマストン首相は、ナポレオン3世との連携を強めた。また、フランスはオーストリアを味方につることに成功。ロシアは孤立し、敗北。フランスの勝利でクリミア戦争終結した。


56年 清王朝とアロー戦争勃発

 クリミア戦争で接近したパーマストン首相とナポレオン3世はアロー戦争に踏み切った。このころ、清王朝では太平天国の乱が発生。この鎮圧に苦慮していた。
 野党保守党は、アロー戦争反対を決議。アロー戦争反対法は可決した。これに対し、パーマストン首相は議会を解散させた。総選挙はホイッグ党の勝利となり、アロー戦争は継続した。

57年 ヨーロッパで大恐慌

 クリミア戦争終戦するとまもなく、ヨーロッパで恐慌が発生した。これにより、ヨーロッパ各国は植民地拡大を進めていくようになった。

57年 インド大反乱

 イギリスが、アロー戦争に向かうとインドはこれを好機ととらえインドで大反乱が発生した。当時、インドはイギリス東インド会社が支配していた。

混乱するイギリス政治

ホイッグ党ラッセル首相

 50年代、まだ自由党は存在しなかった。主力政党は、ホイッグ党、保守党、ピール派の3つである。ホイッグ党は、昔の反王党派の政党である。フランス革命で支持をあえいで長期の野党生活を過ごしていた。しかし、政権与党の保守党が分裂したことを機に与党に戻ることができた。
 一方、ピール派は、保守党から分裂した政党である。分裂の原因は貿易政策である。フランスの農産品に規制をかけたい人たちが保守党に残り、フランス産農産品を受け入れたい人がピール派として保守党を飛び出した。

 この時代、保守党の分裂によって、ホイッグ党政権が成立した。

52年 保守党ピール派アバディーン首相 

 52年、政治は大きく混乱した。与党ホイッグ党が分裂したのである。首相のラッセル派と外相のパーマストン派である。原因は、ナポレオン3世への対応である。ラッセル首相はナポレオン3世の皇帝就任に危機感を覚えた。しかし、パーマストン外相はナポレオン3世の皇帝就任を歓迎した。52年 ホイッグ党ラッセル首相、パーマストン外相を解任。パーマストン派閥と野党保守党が連携。ラッセル首相を辞任に追い込んだ。これにより、保守党ダービー首相が成立した。
 保守党ダービー首相は保守党ピール派に入閣を要請した。しかし、ピール派はこれを拒否した。ダービー首相は少数与党となった。ダービー首相は地主優遇の予算案を提出した。この予算案を作ったのがディズレーリーであった。ピール派はこれに反発。予算は否決され、ダービー首相は辞任に追い込まれた。この時、野党ピール派を仕切ったのがグラッドストンであった。ちなみに日本ダービーの語源は、このダービー首相である。
 ホイッグ党、保守党も内閣を維持できなかった。そのため、首相は第3党の地位に回ってきた。保守党ピール派である。ピール派のアバディーン首相が成立した。この時の大蔵大臣がグラッドストンである。グラッドストンは関税を引き下げその分を相続税で賄った。


クリミア戦争ナポレオン3世

フランスでナポレオン3世の誕生

 このころ、フランスでは二月革命(48年革命)の混乱が続いていた。パリでは、資本家と都市労働者と旧王党派の三つ巴の対立ししていた。この争いにフランス農村は飽き飽きしていた。当時のフランスはフランス革命で地主階級がいなくなり、悠々自適な農業ライフを謳歌していた。そして、フランスの有権者の大部分はパリ市民ではなくフランス農村部の農民であった。彼らが支持したのがナポレオン3世である。ナポレオン3世は、かつての英雄ナポレオンの甥である。50年前のナポレオン黄金期のフランスをナポレオン3世に託したのである。

ナポレオン3世、中東にむかう

 ナポレオン3世は、叔父のナポレオン同様戦争によって、支持を高めようとした。ナポレオン3世が手を付けたのは、ナポレオンが名声を高めたオスマン帝国であった。
 ナポレオン3世は、オスマン帝国と連携してロシアに戦争を仕掛けた。クリミア戦争である。並行して、オスマン帝国から独立したエジプトではスエズ運河の建設を始めた。

54年 ウェストミンスター宮殿が再建

 ウェストミンスター宮殿は、日本でいう国会議事堂に当たる建物。ビッグベンと呼ばれる時計台で有名な宮殿である。
 
 ウェストミンスター宮殿は、11世紀、エドワード王が建てた宮殿。30年代に火災で焼失、これが再建された。

カテゴリー
フランス史

1850年代のフランス ナポレオン3世とクリミア戦争

 1850年代のフランスは、ナポレオン3世の第二帝政の時代である。その代表格の戦争が、クリミア戦争である。ナポレオン3世は、50年代世界各地で戦争を展開した。

英仏通商条約

 60年、清王朝は天津条約の批准を拒否した。英仏両軍は再び軍艦を中国北部の天津港へ向かわせた。清王朝はロシア皇帝アレクサンドル1世を仲介役にして北京条約を締結した。北京条約は、天津条約よりも英仏に有利なものとなった。また、清王朝はロシア帝国にウラジオストーク(沿海州)を割譲した。日本政府は、58年の日米修好通商条約で開港を約束した新潟の開港を遅らせた。

 北京条約を締結した60年、フランスのナポレオン3世とイギリスのパーマストン首相は、英仏通商条約を締結した。これにより、フランスはイギリスへ農産物の輸出量を拡大させた。一方で工業は衰退した。フランスの資本家は国内に投資せず、海外投資を積極的に進めるようになる。その中心が運河の建設であった。

 

イタリア統一戦争
(vsオーストリア)

 天津条約が締結された58年、ナポレオン3世は、サルディーニャ王国(のちのイタリア王国)の宰相カブールと密約を締結した。フランスは、イタリア統一戦争でサルディーニャ王国を支援する見返りに、南フランスのサヴォイアとニースをもらうことになった。

 イタリア統一戦争とは、北イタリアのオーストリア領をめぐるサルディーニャ王国とイタリアの戦争である。ちなみに、オーストリアは1815年のウィーン会議で北イタリアを併合した。

 同58年、レセップスがスエズ運河株式会社を設立。エジプトに地中海とインド洋を結ぶスエズ運河の建設を始めた。スエズ運河株式会社はフランス政府とエジプト政府が折半して出資して設立した。スエズ運河は69年に完成した。

 59年4月、サルディーニャ王国(のちのイタリア)が、オーストリアに開戦。イタリア統一戦争が始まった。しかし、59年7月、フランス皇帝ナポレオン3世、イタリア統一戦争でオーストリアと単独講和した。サルディーニャ王国のローマ教皇領併合を懸念したためである。

 北イタリアは、ロンバルディアがサルディーニャ王国領になったが、ヴェネツィアはオーストリアに残留した。

 サルディーニャ王国は、イタリア統一戦争後、プロイセンに接近した。1866年のプロイセン=オーストリア戦争でヴェネツィアを、1870年の普仏戦争で中部イタリアのローマ教皇領を併合した。   

 イタリア統一戦争では、スイスのデュナン氏が負傷兵の救護活動を行った。クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍に心を打たれたからであるデュナン氏は1864年に国際赤十字条約を締結した。

アロー戦争(vs清王朝)

 ナポレオン3世は、クリミア戦争を終結させるとイギリスとともに清王朝との戦争を開始した。アロー戦争である。

 翌57年、ナポレオン3世は阮朝ベトナムを攻撃した。

 57年には、広州(香港周辺)を占領。広州の総督はイギリス領インドのカルカッタへ連行された。

 58年には、中国北部の天津港へ進軍した。それまで、ヨーロッパの戦争の舞台は江南地方に限られてきた。そのため、北京にいる高級官僚は危機意識が薄かった。しかし、中国北部の天津港が攻撃されると清王朝は降伏。天津条約(イギリス編を参照)を締結した。

 58年、フランスは、幕末日本(徳川政権)と日仏修好通商条約を締結した。

クリミア戦争(vsロシア)

 オスマン帝国は、フランス王室にイェルサレムの管理権を与えていた。しかし、フランス革命期にキリスト教が禁止され、それに伴い、イェルサレムの管理権を返還した。代わりにこの管理権を得たのがロシア帝国であった。

 ナポレオン3世は、オスマン帝国にイェルサレムの管理権を再度お願いした。オスマン帝国はこれを快諾した。それに怒りを感じたのがロシア帝国である。53年、ロシア皇帝ニコライ1世はオスマン帝国へ宣戦布告した。

 ナポレオン3世は、叔父のナポレオンと異なり、外交が巧みであった。とくに、イギリスのパーマストン首相と友好関係を築いていた。そのため、クリミア戦争はロシアVSオスマン国・西欧諸国連合軍という形になった。

 このころ、ヨーロッパの産業革命が急速に進んだ。ナポレオン3世は、クリミア戦争の最中の55年、パリ万国博覧会を開催した。この時期にフランスの鉄道網が整備された。パリ市街地も幹線道路が整備された。現在のパリの街並みはこの時に整備された。交通の便が良くなった一方、パリは攻め込みやすい都市となった。普仏戦争の敗北やパリコミューンの早期決着はこれが要因となった。

 55年、ロシア皇帝ニコライ1世が亡くなると、ロシアは降伏した。次期ロシア皇帝アレクサンドル2世をパリに迎えて講和会議を行った。56年、パリ条約が締結された。

 パリ条約では、オスマン帝国の領土の保全を認めるとともに40年のロンドン条約を再確認し、黒海の中立化を再確認した。

 ちなみに、イギリスのナイチンゲールが活躍したのがクリミア戦争である。 

第二帝政

 48年の2月革命(48年革命)で大統領になったナポレオン三世は、52年国民投票により皇帝になった。ナポレオン三世は、農民、資本家、労働者の利害の異なる勢力に支えられていた。
 英仏通商条約を締結し、自由貿易と国内産業育成に努めた。一方で、対外戦争を進めることで利害対立を外に向けさせた。
 インフラの整備や、労働立法の改正で、ナポレオン三世は、労働者の支持を得ていった。一方で、工業化を進めることで資本家の支持も得た。

カテゴリー
ロシア史

1850年代のロマノフ朝ロシア帝国 クリミア戦争とニコライ1世

1850年代、日本にはペリーが来航。幕末の動乱が始まった。
 このころ、ロシア帝国は大きな戦争がおこった。クリミア戦争である。

カテゴリー
トルコ・ギリシャ史

1850年代のオスマン帝国 世界が守ってくれたクリミア戦争

1850年代、アメリカは日本へペリーを派遣した。ペリー来航である。なぜ、アメリカはこのタイミングで日本へ使者を送ったのだろうか。この時、ヨーロッパは世界的な戦争に巻き込まれていた。クリミア戦争である。

カテゴリー
イラン・ペルシャ史

1850年代のカジャール朝イラン クリミア戦争の裏側で

1850年代、日本はペリー来航で江戸幕府が大きく揺らいだ。しかし、世界全体の関心事は、これではない。クリミア戦争である。当時の2大帝国、イギリスVSロシアが最高潮に達した瞬間である。

カテゴリー
中国史

1850年代の清王朝 太平天国の乱とアロー戦争

 香港近くの広東省で宗教反乱である太平天国の乱がおきる。江南の南京を首都に独自政府を樹立した。太平天国の乱で混乱中の清王朝に対して、イギリス・フランス連合軍がアロー戦争(第二次アヘン戦争)を仕掛ける。清王朝は敗北し、ロシア帝国を仲介して北京条約を締結する。

太平天国 が南京に政府を作る

 50年ごろの清国内は、アヘン戦争の賠償金や戦費のため重税が課され、多くの秘密組織(結社)が組織された。これらの秘密組織は中国各地で反乱を起こしていた。その中で一番大規模なものは、香港周辺の広東省太平天国であった。指導者は、洪秀全で、キリスト教をベースにして、儒教を攻撃対象とし、民間信仰の偶像を次々破壊した。51年太平天国は挙兵。53年長江流域まで勢力圏を広げ、南京を陥落。南京政府を作った。彼らは南京を天京と呼んだ。当時の広東は、近くの香港島がイギリスに奪われ、アヘン中毒者が多くいた。

 太平天国は、江南(中国の南半分)の大部分を制圧した。清王朝は、当初正規軍を派遣した。しかし、鎮圧することができなかった。南部の漢民族の知識層は、独自に軍隊を編成して太平天国の乱の鎮圧へ向った。その代表は曽国藩である。この功績により曽国藩などの漢民族知識層は、清王朝の高官につくようになった。

イギリス・フランス連合軍が
アロー戦争を起こす。

 太平天国の乱で混乱の最中、イギリスは、56年、ナポレオン三世のフランスとともに清王朝に対し、再度出兵を行った。アロー戦争(第二次アヘン戦争)である。
 当時のヨーロッパは56年にクリミア戦争終結したばかりで、一時的な安定期に入っていた。しかし、開戦翌年57年、ヨーロッパ各国は経済恐慌が起っていた。のためアジア・アフリカ市場への進出が各国の政策課題となった。クリミア戦争後の平和と恐慌による世論の形成が、アロー戦争を引き起こした。イギリスは、ヴィクトリア女王の黄金期で、2大政党制が確立していた。51年には世界最初の万国博覧会を開催した。当時の首相はホイッグ党(のちの自由党)で外交手腕の高いパーマストンであった。パーマストンは、58年にはインドのムガル帝国を滅亡し、イギリス領とした。フランスは52年に皇帝になったナポレオン三世の時代で、開戦前年の55年にはパリ万国博覧会を開催。アロー戦争が終結するとベトナム、メキシコなどに出兵するなど対外戦争を繰り返した。

 イギリス・フランス連合軍は、首都北京近くの天津港に迫り、58年天津条約を締結。アロー戦争の敗戦は日本の徳川幕府にも伝わり、徳川幕府は同じ58年日米修好通商条約を締結した。しかし、清王朝は、批准を拒否しイギリス施設の入京を武力で阻止。そのためイギリス・フランス両軍は再度出兵。北京を陥落させる。60年、ロシアの仲介で停戦。北京条約を締結する。

北京条約の内容は

 北京条約では、外国公使の北京駐在。天津など11港開港。外国人の中国内地の旅行の自由。キリスト教布教の自由を認めた。外国公使の北京駐在により、清王朝ははじめて異国との対等外交(朝貢以外の外交をみとめた)ことになった。また、開港した11港の大部分は長江流域であり、19世紀初頭には、長江流域はイギリスの勢力圏になる。また、北京近くの天津港開港や外国公使の北京駐在は、北京で働く中央官僚にも影響を与え、漢人官僚を中心に危機感を感じ、洋務運動のきっかけになった。ちなみに、解禁されたキリスト教布教は、雍正帝が18世紀(1706年)に禁止したものである。

ロシア ウラジオストークをえる。

 一方で、ロシアでは、天津条約を締結した58年にアイグン条約を締結し、中国東北部を一部割譲した。また、ロシアが仲介した60年北京条約では、沿海州中国東北部日本海沿岸)を割譲した。当時のロシアは、56年のクリミア戦争の敗戦で地中海への入り口である黒海の勢力圏を失った。そのため、太平洋岸の不凍港獲得が政治課題であった。ロシアは沿海州を獲得したことで日本海不凍港ウラジオストーク日米修好通商条約で開港した新潟の対岸)を得た。しかし、太平洋に出るには日本列島のどこかを横断せざるを得なく、これは明治新政府に脅威を与えた。一方、清王朝は、これにより日本海ルートを失った。

カテゴリー
インド史

1850年代のムガル帝国 インド反乱とムガル帝国の滅亡

1850年代、日本は幕末。ペリーが東京湾江戸湾)に来航したころである。

 インドも、この時期に大転換期を迎えていた。インド大反乱が発生。これによりムガル帝国は滅亡。東インド会社も解散され、イギリスのインド直接統治が始まる。

カテゴリー
日本史

1850年代の日本(幕末)ペリー来航と開国

 1850年代、日本は江戸時代末期。ペリーが浦賀に来航。日本は激動の幕末を迎える。

カテゴリー
アメリカ史

1850年代のアメリカ 共和党成立とペリー来航

1850年代、日本ではペリーが来航。日米和親条約が締結された。そのペリーを派遣したアメリカはどのような状況にあったのだろうか。