1850年代、日本は幕末。ペリーが東京湾(江戸湾)に来航したころである。
インドも、この時期に大転換期を迎えていた。インド大反乱が発生。これによりムガル帝国は滅亡。東インド会社も解散され、イギリスのインド直接統治が始まる。
1860年代以降のインド
インドは第二次世界大戦まで、イギリスの植民地であった。今回は、その直接的な原因となったインド大反乱を見ていきます。
1850年代の世界情勢、クリミア戦争とアロー戦争
1850年代はクリミア戦争の時期である。この戦争の概要は、リンクのフランス編・ロシア編を見てください。この戦争に勝利したフランスは、ナポレオン三世が台頭。パリ万博を開催し、世界の植民地化を進めた。一方、この戦争に敗戦したロシアは、国内改革を進めた。農奴解放令である。また、ヨーロッパ進出をあきらめ、アジア(中央アジア、清王朝、日本(江戸幕府))である。
イギリス、フランス、ロシアの矛先は同じ方向に向かった。それがアジアである。インドではインド大反乱、清王朝ではアロー戦争と太平天国の乱、日本では、開国(日米修好通商条約)の形で現れる。幕末は、日本だけでなくアジア各国にとって大転換期であった。
1950年代の宗主国イギリス
イギリスは、ヴィクトリア女王の黄金期を満喫していた。40年代、アヘン戦争に勝利イギリスの影響力は清王朝まで達した。48年革命(フランス二月革命など)やクリミア戦争でイギリス以外のヨーロッパ諸国は疲弊していた。そのため、産業革命で安くなったイギリス製品は飛ぶように売れた。このころから、「世界の工場」と呼ばれるようになる。その象徴が、51年のロンドン万国博覧会である。
しかし、クリミア戦争が終結した翌年57年、ヨーロッパ全体で経済恐慌が起こる。原因は、産業革命がヨーロッパ全域に広がり、過剰生産になったためである。この出来事から、イギリスの植民地政策は加速した。
第2次ビルマ戦争と40年代のインド
40年代のシク戦争の勝利で、イギリス(東インド会社)は、インドの全域を掌握した。次に標準を合わせたのがミャンマー(ビルマ)である。
52年、イギリス(東インド会社)はミャンマー(コンバウン朝)へ侵攻した。(第二次ビルマ戦争)。イギリス(東インド会社)は、ミャンマー南部を併合した。
57年 インド大反乱
インド大反乱は、シパーヒーの乱ともいわれる。インドによる東インド会社に対する反乱である。
用語の解説
シパーヒーとは
東インド会社
イギリスが17世紀に設立した貿易商社である。当初アジアでの貿易の独占権を与えられていた。18世紀、ブラッシーの戦いに勝利すると、インド北東部のベンガル地方の徴税権を獲得した。これにより、交易と徴税の2つの収入源を得た。しかし、19世紀に入ると都市の資本家を中心にイギリスで自由貿易を求める運動が活発化した。そのため、貿易の独占権を次々はく奪されていった。その結果、交易による収入はなくなり、徴税が主な収入源となっていった。1840年代のシク戦争に勝利するとインド全域の徴税権を得るようになる。
ムガル帝国
16世紀初頭に成立したイスラム教国家。インド全域を治めるアジアの大国であった。
しかし、50年代、東インド会社が進出し、皇帝の地位は名目だけのものとなっていた。実際は、デリー周辺を治める一地方政権に落ちぶれていた。
インド大反乱の背景
東インド会社は多くの藩王国(東インド会社が旧統治者に自治を認めたインドの地方政権)を取り潰した。これにより、ムガル帝国の支配層の大部分は没落していた。
40年代のシク戦争の勝利により、インドの大部分は東インド会社の支配下に入った。そのため、傭兵の需要がなくなり、シパーヒーのリストラを開始していた。
そのような中、53年クリミア戦争が勃発。インドのエリート層は、
きっかけ
弾薬に牛や豚の脂が使われていたといううわさが流れた。
牛は、ヒンドゥー教徒にとって神聖のものであり
豚は、イスラム教徒にとって忌み嫌うものであった。
それにより、シパーヒーは激怒。57年、シパーヒーは、ムガル帝国皇帝を担いで反乱を開始した。ちなみに、このシパーヒーの反乱は、プラッシーの戦いからちょうど100年目の年に当たる。
58年 ムガル帝国滅亡と東インド会社の解散
シパーヒーの反乱は、瞬く間に北インド全域に広まった。しかし、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との内部対立などの要因で59年鎮圧された。
ムガル帝国皇帝は、流罪となりミャンマーへ連行された。これにより300年にわたるムガル帝国の歴史はここに幕を閉じた。
一方で、イギリス政府は東インド会社を解散し、インドの直接統治を開始した。イギリス本国には、インド省とインド担当大臣が置かれた。インドには、イギリス人総督と参事会が置かれた。ただ、契約の関係上20年間は東インド会社は存続し、77年のインド帝国成立となる。
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