1850年代、アメリカは日本へペリーを派遣した。ペリー来航である。なぜ、アメリカはこのタイミングで日本へ使者を送ったのだろうか。この時、ヨーロッパは世界的な戦争に巻き込まれていた。クリミア戦争である。
タンジマートと露土戦争
1860年代、クリミア戦争が終結するとオスマン帝国はイギリスやフランスの影響を受けるようになる。日本の文明開化に近い政策である。その中で台頭してきたのがミドハトである。
一方で、クリミア戦争に敗北したロシアは、農奴解放令などの改革を進めた。そして70年代、再び黒海をめぐり戦争が開始された。露土戦争である。
クリミア戦争
背景
ロシアの南下政策(バルカン半島)進出にフランス・イギリスが警戒していた。当時のロシアの皇帝は、ニコライ1世である。彼は48年革命の鎮圧で名を轟かせていた。一方、フランスは、48年革命で皇帝ナポレオン3世が誕生した。ナポレオン3世は植民地政策を積極的に進めていた。そして、彼と友好関係にあったのが、イギリスのパーマストンである。50年代、英仏連合軍が世界を轟かせていた。
きっかけ
ナポレオン3世は、オスマン帝国にイェルサレムの管理権の返還を求めた。オスマン帝国はこれを快く受け入れた。ロシアはこれに激怒。クリミア戦争がついに勃発した。
イェルサレムは、キリスト教の重要な聖地である。7世紀にイスラム勢力の支配下に入った。11世紀に十字軍によって奪還するも、13世紀には撤退した。その後、マムルーク朝エジプトの支配を経て、オスマン帝国領になっていた。16世紀、オスマン帝国がスレイマン1世の全盛期を迎える。この時、神聖ローマ皇帝カール5世と戦うため、フランス国王フランソワ1世と同盟を結んだ。このとき、イェルサレムの管理権をフランスに与えていた。しかし、1790年代のフランス革命期に、フランスがキリスト教を禁止。これにより、イェルサレムの管理権を放棄した。代わりに統治権を得たのがロシアであった。
開戦と経過
ロシアは、バルカン半島東北部のルーマニアへ侵攻した。オスマン帝国はヨーロッパ各国に支援を求めた。フランスのナポレオン3世はもとより、フランスと友好関係にあったイギリス。イタリアの前身、サルディーニャ王国などが参戦した。オスマン帝国軍は、黒海北岸にあるクリミア半島へ上陸し、ロシアへ侵攻した。
55年にロシア皇帝ニコライ1世が亡くなると、中立を保っていたオーストリアがロシアへの戦争準備を始めた。これにより、ロシアは降伏した。
講和条約、パリ条約
56年、クリミア戦争は終結。各国首脳はパリへ集まった。10年代のウィーン会議以来の大規模な講和会議である。この時に決められたのは以下の内容である。
これにより、サルディーニャ王国の国際的な地位が向上した。これをきっかけに位置リア統一へ向かう。
クリミア戦争後の世界
戦勝国のオスマン帝国では 第2次西欧化政策(タンジマート)
オスマン帝国は、クリミア戦争に勝利すると、イギリス・フランスへの依存度を高めた。パリ条約の締結の前に「改革の勅令」を発布。非イスラム教徒の政治的権利の拡大を認めた。これにより、台頭してくるのがミドハトである。
戦勝国のイギリスとフランスは、清王朝へ
イギリス(パーマストン)とフランス(ナポレオン3世)の蜜月は続いた。クリミア戦争が終結すると、英仏は矛先を清王朝へ向けた。アロー戦争である。当時の清王朝は、40年代のアヘン戦争の敗北と中国南部の宗教反乱(太平天国の乱)で混乱していた。英仏は、アロー戦争に勝利し、さらに東アジアの利権を拡大した。
60年代に入ると、ヨーロッパでは新たな動きが出てきた。ドイツとイタリアの統一である。この時代に台頭してきたのがビスマルクである。そして、ナポレオン3世(フランス)とビスマルク(ドイツ)が激突した。普仏戦争である。
敗戦国ロシアでは、農奴解放令
クリミア戦争の終盤で、ニコライ1世は亡くなった。後を継いだのはアレクサンドル1世である。東アジアでアロー戦争が起こると、仲介役を買う。このタイミングでウラジオストーク(沿海州)を清王朝から獲得。日本海へ進出した。このことは日本(明治新政府)に緊張感を与えた。
60年代に入ると、クリミア戦争のリベンジにむけて改革を断行した。その代表例が農奴解放令である。そして、70年代、西欧で普仏戦争が勃発すると、オスマン帝国へ再び侵攻した。露土戦争である。
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