リーマンショックで再び野党へ
麻生政権
08年9月、福田首相が辞任を表明。町村派は自派閥からの出馬を断念。これにより、候補者が乱立した。最終的には麻生派(旧河野派)の麻生氏が勝利した。
年越し派遣村
世論の支持をうけて、衆院選に打って出るはずであった。しかし、この時にリーマンショックが発生。景気が急速に悪化した。この時、派遣切りが発生。多くの失業者が出た。
12月には、東京の日比谷公園に年越し派遣村が発生した。
衆院選で政権交代
翌09年08月に衆議院を解散。自民党は過半数割れ。政権交代が起こった。
谷垣総裁へ
衆院選の大敗で、町村派(細田派)と津島派(竹下派)が大幅に落選者を出す。これにより、谷垣派(現在の岸田派)が第一派閥に。衆院選後の総裁選で谷垣総裁が登場した。
相次ぐ短命政権
福田首相と麻生包囲網
07年7月、消えた年金問題で参院選で大敗。安倍首相は辞任した。町村派(旧森派、現在の細田派)は福田首相を立候補。谷垣派と古賀派も、福田首相支持に回り、福田首相が誕生した。
翌年、古賀派が谷垣派(現在の岸田派)に合流した。これにより、町村派(細田派)、津島派(竹下派)に次ぐ第三派閥になった。
小泉首相の後継者、安倍首相
06年9月、小泉首相が任期満了。総裁選で同じ森派(細田派)の安倍首相が誕生した。この選挙には、河野グループの麻生氏と谷垣派(岸田派)の谷垣氏も出馬。予想に反し、麻生氏が時点に就いた。そのため、加藤派と古賀派は危機感を覚えた。
小泉劇場
郵政解散と刺客
小泉首相は、05年に郵政民営化法案を提出。これは、しかし、多くの造反者がでて否決された。
郵便局で集めた資金は、多くの公共事業に回った。この公共事業は竹下派の集票マシンであった。そのため、小泉氏は、この集票マシンを壊すために郵政民営化を実施したかった。
小泉首相は、すぐに解散に打って出た。造反者は公認せず、さらに刺客として多くの議員を送り込んだ。小池都知事も刺客として兵庫から東京へ鞍替えして出馬した。
自民党は、多くの新人議員が誕生した。彼らは小泉チルドレンと呼ばれた。
一方、江藤亀井派は、亀井氏が除名されたため伊吹派(二階派)になった。また、橋本派は津島派(後の竹下派)になった。また、森派(現在の細田派)は津島派を抜いて第一派閥になった。
07年、郵政は民営化された。しかし、民主党政権に代わると郵政民営化は見直された。
道路公団民営化
道路公団とは、高速道路をつくる公社である。小泉首相はこれを民営化した。
非正規労働者の増加
派遣法を改正。製造業でも派遣社員を使えるようになった。これにより、就職氷河期世代の多くの人々が非正規労働者となった。
規制緩和と実感なき景気回復
小泉政権は、小さな政府を主導した。そのため規制緩和を実施した。酒税法や農地法、会社法を改正。様々なビジネスが展開された。
これにより、GDPが増加した。実際、ヒルズ族と呼ばれる六本木ヒルズ近郊に住む富裕層が数多く誕生した。一方で、賃金はほとんど上がらなかった。そのため、多くの人々は景気回復を実感できなかった。これが実感なき景気回復と呼ばれる理由である。また、小泉首相の経済政策で格差は拡大していった。
構造改革
地方行政と三位一体の改革
小泉政権は、中央官庁が地方への影響力を低下させるために三位一体の改革を実施した。
国から地方に流れる資金を削減し、代わりに国の税金の一部を地方税に変えていった。
これにより、中央官庁の影響力は低下した。しかし、地方自治体間の格差は拡大した。
03年総裁選
日朝平壌宣言で、小泉政権の支持率は向上した。
03年、連立相手の保守党が自民党に合流。小池都知事はこの時自民党に復党している。また、73年定年制を導入。中曽根元首相や宮沢元首相を引退させた。
03年、総裁選。橋本派(竹下派)の野中氏は独自候補を模索。しかし、橋本派の大部分が小泉再選を支持。野中氏は対立候補を出せず、小泉朱署は無投票で再選した。
04年、橋本元首相の日歯連闇献金問題がおきた。
日朝平壌宣言
02年、小泉首相は、北朝鮮を訪問。首脳会談を実施。翌年、一部の拉致被害者の帰国を達成した。
有事関連法と9・11
小泉政権成立直後に、最大のテロ事件が発生。9・11NY同時多発テロが発生した。アメリカは、アフガンとイラクへ侵攻した。
小泉政権は、特別措置法を制定。自衛隊は後方支援に参加した。
官邸主導
橋本行革で、官僚に対して首相の権限が強化された。本来は橋本派(竹下派)がこれを利用して地元へ利益誘導するはずであった。しかし、政権交代によって、小泉首相がこの権限を利用することになった。
小泉氏は、派閥の力を使わずに首相になった。そのため、派閥を無視して人事を行った。党執行部から橋本派(現在の竹下派)が一掃された。
- 橋本派(竹下派)反主流派に
- 谷垣派(岸田派)谷垣氏などが重要閣僚に
- 堀内派(岸田派)反主流派に
- 河野派(麻生派)麻生外相を中心に主流派へ
小泉政権成立
01年4月、あまりの支持率の低さに総裁選の前倒しが行われた。この時、密室政治への批判の対応として党員票を3倍にした。
幹部は、橋本元首相(橋本派、現在の竹下派)で進める予定であった。しかし、若手議員が小泉氏(森派、現在の細田派)を担ぎ上げた。小泉氏は党員票の大部分を獲得。総裁選に勝利した。
この総裁選には、河野グループ(現在の麻生派)の麻生氏と江藤亀井派(現在の二階派)の亀井氏も出馬した。(亀井氏は党員票の結果をうけて辞退した)。
森首相と加藤の乱
00年4月、小渕首相の死去で、森首相(森派、現在の細田派)が誕生した。総裁選も行われず密室で決まったため、低い支持率で始まった。さらに多くの失言でさらに支持率を低下。
あまりの支持率の低さで00年11月、内閣不信任案が提出された。加藤氏(後の岸田派)が山崎氏(現在の石原派)とともに内閣不信任に向けて動き始めた。加藤氏は森派(現在の細田派)の小泉氏も誘ったが小泉氏は動かなかった。
影の実力者の野中氏(小渕派、現在の竹下派)は、加藤派の切り崩しを実施。これにより、内閣不信任は否決された。
加藤派(現在の岸田派)は、森首相支持派の堀内派と加藤支持派の谷垣派に分裂した。
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