バブル経済と中曽根政権
青年将校、中曽根首相
中曽根首相は、1918年の第一次世界大戦中に生まれた。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。戦前は、内務省で働き、海軍へ出向した。
47年の衆議院選挙で初当選。この選挙は、大日本帝国憲法下の最後の衆議院選挙であった。自民党結成前は、民主党に所属。反吉田の急先鋒で活躍した。
59年の岸内閣で初入閣。
首相退任後は、
首相を輩出する群馬3区
中曽根首相の地盤は、高崎市のある群馬3区である。福田元首相がトップ当選し、2番手で中曽根氏、3位に社会党議員が当選し、末席で田中派の小渕氏が当選した。3人の首相を輩出する選挙区である。
96年、小選挙区制が導入されると、候補者調整で比例選挙区に回った。しかし、03年、小泉首相が定年制を導入。中曽根氏は政界を引退した。
現在の二階派
中曽根首相は、自民党結党前は野党の民主党に所属。吉田首相との対決姿勢を見せていた。
自民党が結党されると、河野一郎派に所属。ちなみに、河野一郎氏は河野太郎の祖父である。河野派は当初、主流派1であったが池田首相時代に反主流派1になる。66年、佐藤首相の支持・不支持で分裂。中曽根ら、不支持派は河野派を離脱。中曽根派を旗揚げした。河野一郎氏の後を継いだ河野洋平氏は、中曽根派に参加。中曽根派が正式な後継派閥になった。72年の角福戦争では、キャスティングボードを握り、田中首相の誕生に貢献した。一方、佐藤首相支持派はのちに、福田派に合流している。
中曽根氏は、読売新聞の正力松太郎氏や渡辺恒雄氏らと関係が深い。
中曽根氏は、90年リクルート事件で自民党を離党。派閥は渡辺氏が引きついだ。98年、山崎拓氏らが中曽根派を離脱。山崎派(現在の石原派)を結成。99年、三塚派(現在の細田派)を離脱した亀井グループが合流。村上・亀井派を結成。これが現在第3位の二階派となる。
財政再建とJR
日本は内需拡大をするため、国営事業の民営化を進めた。JR(旧国鉄)、JT(日本たばこ産業)、NTT(元日本電電公社)
ロンヤス外交
80年代に入ると、アメリカでは双子の赤字が問題視されるようになった。80年のソ連のアフガニスタン侵攻で、新冷戦が始まると軍事費が増大。財政はひっ迫した。
アメリカのレーガン大統領は、鈴木首相(大平派、現在の岸田派)に軍事協力を求めた。しかし、鈴木首相はこれをやんわり断った。そのため、日米の関係は悪化した。
また、円借款問題で韓国政府(全斗煥大統領)でもめていた。
中曽根首相は、首相になると日韓関係は改善された。
中曽根首相は、防衛費の拡大と武器輸出三原則の例外処置を土産に訪米。レーガン大統領はこれを歓迎。これによりロンヤス関係が成立した。
83年5月、ウィリアムズパークサミットを開催。レーガン大統領は、中距離弾道ミサイルの配備を提案。しかし、フランスのミッテラン大統領らヨーロッパの首脳は消極的な対場をとった。このとき、中曽根首相の発言で雰囲気が変わる。声明に西ヨーロッパへの中距離弾道ミサイル配備の可能性について言及された。
85年、プラザ合意で円高誘導。これにより、円高不況をぼうしするため、大胆な金融緩和を実施。バブル経済が発生した。
それでも、アメリカが景気回復をしないため、貿易自由化交渉が進められた。これが、80年代後半の牛肉オレンジ自由化問題につながる。
中国と靖国公式参拝
中曽根首相は親中派である。70年代は日中国交正常化に尽力した。83年11月に、胡耀邦総書記の訪日を実現している。
85年8月15日、中曽根首相は靖国神社を公式参拝。日中関係が急速に悪化した。当時の中国は、親日派と反日派で権力闘争が行われていた。靖国神社公式参拝で、親日派のメンバーの立場が悪くなった。そのため、中曽根首相は以後公式参拝を中止している。
防衛費GNP1%枠の撤廃
中曽根首相は、反吉田派である。自主憲法制定、再軍備を主張していた。
靖国神社の公式参拝。防衛費GNP1%枠の撤廃を行った。
このように右派色は否定的な一面もあるが。86年の三原山噴火の際は、国家を総動員して全島避難をさせるなど安全保障上の利点も大きい。
当時、世界は新冷戦の真っただ中。アメリカ政府は防衛費GNP1%枠の撤廃を歓迎した。
男女雇用機会均等法
79年に、国連で女子差別撤廃条約が締結。これをうけて、85年に男女雇用機会均等法が改正された。これにより、女性の社会進出が進んだ。
また、風営法を改正。性風俗の規制を強化した。ちなみに、この時期にトルコ風呂がソープランドに改称された。これはのちに都知事になる小池氏が尽力したものである。トルコ人学生の陳情を受けて、カイロ大学を卒業した小池氏が厚生労働省に陳情したものである。
派閥の世代交代
84年総裁選 二階堂擁立構想
84年総裁選。高支持率を背景に無投票での再選を考えていた。非主流派の安倍氏(福田派)、宮澤氏(大平・鈴木派)、河本氏(三木派)が再選阻止に動いていた。
84年、鈴木前首相(大平・鈴木派)は、目白の田中邸を訪問。田中派の二階堂氏擁立を提案した。しかし、田中元首相はこの提案を拒否。
中曽根首相の無投票再選が決まった。
この事件で、元首相の発言力が低下していることが露呈。各派閥で世代交代が進んだ。
- (細田派)福田元首相 → 安倍氏
- (岸田派)鈴木前首相 → 宮澤氏
- (麻生派)三木元首相 → 河本氏
大平派 田中氏 vs 宮澤氏
大平派は、鈴木首相退陣後に後継者起こった。実力で行けば、次は宮澤氏のはずである。しかし、宮澤氏は田中元首相に嫌われていた。そのため、田中角栄元首相は、田中六助氏を支持に回った。それに対し、宮澤氏をサポートしたのが福田元首相である。これで角福戦争の代理戦争が勃発した。
この後継者争いは、85年田中六助氏が死去。田中角栄元首相も死去。これにより、宮澤派が成立した。
83年総選挙 河野氏の新自由クラブとの連立政権
83年6月の参院選、自民党が勝利。順調な滑り出しをきった。しかし、その後に逆風が吹き始めた。10月、ロッキード事件で実刑判決。12月の衆院選で、過半数割れの大敗をした。
中曽根氏は、元中曽根派の河野洋平氏率いる新自由クラブと連立政権を樹立。何とか政権を維持することができた。
ちなみに、この選挙で83年1月に死去した中川一郎の後を継ぎ、中川昭一氏が初当選。タカ派色の強い福田派に所属した。のちに亀井氏らとともに村上亀井派(現在の二階派)に参加した。
田中曽根内閣
82年総裁選。鈴木首相の再選を予測していた。しかし、突如鈴木首相が不出馬を表明。後継に中曽根首相を指名した。
82年の自民党総裁選。田中派の支持を受けて勝利した。第一次田中内閣では、後藤田氏や二階堂氏などの田中派の議員が起用された。そのため、田中曽根内閣などと揶揄された。
なお、この総裁選では以下の人が出馬した。
- 安倍氏 反主流派の福田派(現在の細田派)
- 河本氏 反主流派の三木派(現在の麻生派)
- 中川氏 石原慎太郎氏と青嵐会というタカ派集団を結成
翌83年1月に自殺。
鈴木首相
鈴木首相は岩手県の網元の家に生まれた。大学時代に津波で大きな被害を受けて政治家を志すようになる。
中曽根首相と同じ47年衆議院選挙で初当選。日本社会党に所属する。その後、支持者の説得で吉田首相率いる民主自由党に参加。自民党結党後は池田派の宏池会(後の大平派、現在の岸田派)に所属。
80年、ハプニング解散。大平前首相が選挙中に死亡した。ロッキード事件の最中で、第一派閥の田中派は総裁を出せなかった。一方で、福田派や三木派は不信任に参加したために総裁を出すことはできなかった。そのため、大平派の鈴木氏が首相になった。
海外での知名度が不足。Who is 大平 と揶揄された。
この時に官房長官に就いたのが大平派の宮澤喜一氏である。
この時期から財政再建が叫ばれるようになった。大平前首相は消費税を導入しようとして失敗。鈴木氏は「増税なき構造改革」を掲げた。これを指揮したのが中曽根氏である。
一方で、反主流派の河本氏(三木派)、中川氏(石原慎太郎派)を起用した。
政治改革に着手。参議院の全国区を比例代表制に変更した。
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