20年代
21年総裁選 党改革と二階幹事長
21年総裁選。当初は、岸田氏vs菅首相の戦いになるはずであった。岸田首相は先制パンチを打った。これが党改革である。党三役に任期を設け、二階幹事長を退かせようとした。これにより、若手の任期を得た。
菅首相もこれに追随。これで、二階幹事長と菅首相の関係が悪化。菅首相は出馬を断念せざるを得なくなった。
20年総裁選 二階幹事長と菅官房長官に敗れる
岸田候補は、ポスト安倍の最有力候補であった。
19年から、森友加計問題や桜を見る会の問題で心労がたたった。そこにコロナの問題。安倍首相は体調を崩し、辞任した。
ここで二階幹事長が動いた。令和おじさんで人気を博した菅官房長官を擁立したのである。二階派と若手議員が菅官房長官に就いた。これに危機感を感じ、細田派(安倍首相派閥)、麻生派、竹下派の主要3派閥が菅官房長官につき、菅政権が成立した。
給付金問題
おそらく、安倍元首相は、岸田首相と菅官房長官のタッグを考えていた。しかし、官僚は、動かしにくい菅官房長官を外そうと動いていた。20年に入ると、重要な決定で菅官房長官が外されることがあったようだ。野党からもこのことについて追及されるほどであった。
コロナで経済が悪化。官邸の官僚と岸政調会長は、給付金について協議。低所得者層に30万円の給付金を発表した。しかし、二階幹事長が公明党と一緒に反発。一律10万円の支給に変えられた。
10年代
政調会長時代
17年8月、自民党政調会長に就任。ポスト安倍の準備を始める。18年9月の総裁選。岸田政調会長を推す声も高かったが、出馬を見送り、安倍首相を支持した。
外務大臣時代
14年12月に外務大臣に就任した。起用の理由は2つあった。1つは、バックについていた古賀氏が中国に太いパイプを持っていた。もう一つは、沖縄県知事に強いパイプを持っていた。当時の沖縄は、民主党政権の置き土産で普天間基地の移設問題を抱えていた。
岸田外務大臣時代は、韓国との関係が悪化した時代である。徴用工問題と慰安婦問題である。慰安婦問題では財団を設立し10億円を拠出し日韓合意を得た。
岸田外務大臣の最大の功績は、オバマ大統領の広島訪問である。
野党の国対委員長
11年、谷垣総裁時代に、国会対策院長に就任。与党民主党との交渉を担当した。
00年代
アフター小泉政権
07年、岸田候補は安倍政権で初入閣。内閣府特命大臣として、高市候補、野田候補と連携し、消費者庁を創設に尽力した。
07年、安倍首相が退陣。有力候補は麻生氏であった。主要派閥は、反麻生同盟を結成。町村派(細田派)の福田氏が首相になった。加藤の乱で分裂した旧宮澤派の谷垣派と堀内派はこの時に合流した。これが現在の岸田派である。
08年、麻生政権が成立。人気の高い麻生政権で支持率を上げて解散に踏み切ろうとした。しかし、9月にリーマンショックが発生。景気が悪化。任期満了間近の09年12月に総選挙。自民党は野に下った。岸田候補は、この逆風選挙で議席を守った。
加藤の乱
00年、森政権が成立。失言で支持率を大きく低下させていた。そのような中、野党の民主党が内閣不信任案を画策していた。加藤派(旧加藤派)の加藤氏と山崎派(旧中曽根派)の山崎氏がこれに賛成しようとした。これは80年のハプニング解散や93年の小沢グループの造反を意識したものであった。
森首相支持派の小泉氏(森派)と野中氏(小渕・橋本派)が切り崩し工作を行った。これにより、加藤の乱は失敗に終わった。
加藤の乱で、加藤派(現岸田派)は、加藤氏に追随した谷垣派と加藤氏に就かなかった堀内派に分裂した。岸田候補は、親戚の宮澤元首相を頼って堀内派に参加した。
90年代
93年、岸田候補は、父の地盤を引き継いで広島から出馬。親戚で現職首相の宮澤氏に応援演説をしてもらった。無事初当選。同期には安倍元首相や野田候補がいた。当選後、岸田候補は宮澤派に所属した。97年に若手のトップ自民党青年局長に就任した。
80年代後半
87年、日本長期信用銀行(現在の新生銀行)を退職。衆議院議員の秘書になる。
70年代
78年、岸田候補は、早稲田大学を卒業。日本長期信用銀行に入行。
翌79年、岸田氏の父が通産官僚を退職。衆議院選挙に出馬。当選する。同期は、麻生氏や亀井氏がいる。岸田候補の父は大平派(後の宮澤派に所属した。)
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