1970年代の衆院選 派閥全盛期の衆院選

80年06月 ハプニング解散

40日抗争とハプニング解散

 79年10月、衆院選で自民党は過半数割れの大敗。反主流派の福田派らは大平首相の退陣を要求した。しかし、大平首相はこれを拒否した。

 自民党は、首相候補を一本化できずばらばらに投票することになった。最終的には、大平首相が選出された。

ハプニング解散

 80年5月、社会党ら野党は内閣不信任案を提出。追加公認で自民党は過半数を確保しているので否決されるはずであった。しかし、福田派らの自民党反主流派が欠席。内閣不信任案が可決。大平首相は、衆参同日選挙へ踏み切った。

大平首相、憤死

 6月、衆院選の選挙活動中に大平首相は心不全で亡くなった。自民党は、大平首相の弔い合戦で共闘体制が構築された。

自民党大勝

 自民党は大勝。単独で安定多数を確保した。これによって保革伯仲国会は終了した。次期首相には。大平派の鈴木氏が就いた。

野党の結果

社会党は、現状の議席数を確保した。

大幅に議席を減らしたのは、公明党、民社党、共産党であった。

 一方、河野洋平の新自由クラブは議席を増やした。

79年10月 40日抗争へ

大福密約

 78年総裁選。大福密約で大平首相が選出されるはずであった。しかし、福田首相は高支持率を背景に総裁選へ出馬した。結果、田中派の支持を受けた大平氏が勝利。大平政権が誕生した。

大平首相と消費税

 経済では田園都市構想で景気回復を図ろうとした。一方で、外交政策では、福田政権の全方位外交を転換。親米路線をとった。それ一例がモスクワオリンピックのボイコットである。元号法を成立させて、元号に法的根拠を与えた。

 79年10月に総選挙へ踏み切った。大平首相は公約に消費税の導入を挙げようとした。しかし、これは取り下げられた。

40日抗争へ

 自民党は、大敗した前回選挙からさらに1議席減らした。追加公認でかろうじて過半数を維持した。

 ロッキード事件の余波に加え、大平首相の消費税導入発言が問題視された。

 大平首相はこの選挙を勝利として続投に意欲を燃やした。しかし、福田元首相らは退陣を求めた。これにより四十日公行層が勃発した。

野党の結果

 社会党は10議席を減らし、野党の分裂はさらに促進された。

 共産党が多きに躍進、議席を倍増させた。

 公明党と民社党も議席を増やした。

 一方、新自由クラブは壊滅的な敗北で4議席になった。

76年12月 ロッキード事件

三木政権とロッキード事件

 74年、金脈スキャンダルで田中角栄首相が退陣。反田中派の福田赳夫氏と親田中派の大平正芳氏が対立した。そこで中間派の三木武夫氏が折衷案で首相になった。

 三木首相は、金脈スキャンダルを受けて政治改革を断行しようとしたが田中派などの反主流派の反発で実行できなかった。

 この時代、田中首相の列島改造論で財政が肥大化。歳出削減が急務であった。しかし、オイルショックで物価が高騰。歳出削減が進まず。この頃から赤字国債の発行が常態化した。

 三木首相は、早期に解散総選挙へ踏み切りたかった。しかしそれができなくなった。それが76年2月のロッキード事件である。これは、アメリカで発覚した田中前首相の収賄事件である。

三木おろしで解散できず

 三木首相はロッキード事件を徹底追及を行うことを国民に約束した。田中派に脅威を与えた。田中派は、福田派を味方につけて、三木首相の退陣を試みた。

新自由クラブ

 76年6月、自民党のロッキード事件への対応に反発。河野洋平氏らが自民党を離党して新自由クラブを結党した。

 7月、田中前首相が逮捕。翌8月に保釈される。

 9月、三木首相は閣議で解散を実行しようとした。しかし、閣僚の大部分が反対した。罷免して解散をすることもできたが、三木首相は政治理念に反するとしてこれを行わなかった。

 任期切れにより、12月に総選挙が実施された。

自民党大敗 保革伯仲国会で福田政権へ

 自民党は、過半数割れの大敗を喫した。(追加公認でかろうじて過半数を確保)。三木首相は、責任を取り辞任。大福密約で、福田政権が誕生した。

社会党躍進

 社会党は、ロッキード事件への批判票で大きく議席を伸ばした。しかし、政権を奪うほどの大勝はできなかった。その理由は、反自民の票の一部が公明党、民社党と新自由クラブへ流れたためである。

新自由クラブ 3倍の大躍進

 新自由クラブは、自民党にも社会党にも入れたくない人の支持を大きく集めた。これにより、議席を3倍にする大勝をした。

共産党敗北

 共産党は半数以上の議席を失い、17議席になった。

民社党・公明党 躍進

 公明党と民社党は、躍進。特に公明党は50議席を獲得した。

72年12月 角栄フィーバー

選挙は日曜日

 この選挙から、日曜日に選挙が行われるようになった。また、沖縄返還で定数が増加した。

角栄フィーバー

 72年5月、佐藤派の大部分の議員を引き抜き田中派を結成。6月、「日本列島改造論」を発表。翌7月の総裁選で福田赳夫氏を破り首相になった。

 9月、日米首脳会談後に、中華人民共和国を訪れる。日中公国交正常化を実現。

 12月、解散に踏み切った。

自民党勝利

 自民党は過半数を確保。しかし、前回の選挙から26議席を減らした。

 田中角栄首相は、

社会党躍進

 社会党は議席を3桁にもどした。当時の社会党は、極左の共産党と共闘しようとするグループと、中道左派の民社党、公明党と共闘しようとするグループが対立していた。この選挙で民社党、公明党が不振。共産党と共闘費用とするグループの発言力が高まった。

共産党躍進

 日中国交正常化で、中国共産党の悪いイメージが払しょくされた。その結果、議席を大きく伸ばし38議席を確保した。

公明党、民社党は不振

 議席を大きく落としたは、中道左派の民社党と公明党であった。特に公明党は言論出版妨害事件でイメージが悪化していた。

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