日本の高等教育機関の歴史は、単なる教育の変遷にとどまらず、明治維新以降の日本が如何にして近代国家としてのアイデンティティを確立してきたかという国家形成の縮図である。幕末の動乱期から明治の文明開化、大正デモクラシー、そして戦後の復興期に至るまで、大学は常に時代の最先端を行く知の集積地であり、同時に政治的・社会的な変革の波を受ける歴史の舞台でもあった。現代の受験生が目指す「有名大学」の校門の背後には、創設者たちの執念や、消え去った学問所からの知の継承、そして後世に語り継がれるべき数々の雑学が隠されている。

帝国大学の深層:東京大学の多層的な起源
日本の大学の頂点に君臨する東京大学の歴史を紐解くとき、多くの人がその設立を1877年(明治10年)と記憶している。しかし、学問的な根源を辿れば、それは江戸時代中期にまで遡る複雑な「知の合流」の結果である。東京大学は、幕府の直轄機関であった三つの流れ、すなわち儒学の総本山「昌平坂学問所(昌平黌)」、西洋の知を吸収する「開成所」、そして命を守る技術を磨いた「医学所」が統合されることで誕生した 。
昌平坂学問所と知の対立
1684年に設置された「天文方」から派生し、洋学の研究機関として発展した開成所や、1857年の「種痘所」に端を発する医学所とは対照的に、昌平坂学問所は徳川幕府の正学である朱子学を教授する場であった 。明治維新後、新政府はこれら旧幕府の機関を接収し、「大学校」として統合する計画を立てたが、そこには深刻な派閥抗争が待ち受けていた 。
1869年(明治2年)に発足した大学校(後に大学と改称)では、国学・漢学を重視する保守派と、西洋の先進的な知を求める洋学派が激しく対立した 。特に、最高学府であると同時に教育行政を司る官庁でもあったこの組織において、国学派が主導権を握り「学神祭」を挙行したことは、漢学派や洋学派を極度に刺激した 。この対立の激化により、大学の本校(昌平坂の流れを汲む組織)は1870年(明治3年)に閉鎖へと追い込まれる 。この挫折は、日本の近代教育が「和魂漢才」から「和魂洋才」、そして西洋化へと大きく舵を切る決定的な瞬間であったと言える。
東京大学の成立と本郷キャンパスの秘密
1871年(明治4年)に文部省が設置された後、生き残った「南校(旧開成所)」と「東校(旧医学所)」は、それぞれ東京開成学校、東京医学校へと発展した 。そして1877年4月12日、両校が合併することで、法・理・文・医の4学部を備えた日本初の近代大学「東京大学」が正式に誕生したのである 。
東京大学の象徴として名高い「赤門」は、大学創設以前の1827年(文政10年)に建立されたものである。これは加賀藩主・前田斉泰が、徳川第11代将軍・家斉の娘である溶姫(やすひめ)を迎えるために建てた「御守殿門」であり、正式名称を「旧加賀屋敷御守殿門」という 。江戸時代の慣習として、将軍家から姫を迎える際は朱塗りの門を設ける決まりがあったが、この門は火災で焼失すると再建が許されないため、現存していること自体が極めて稀な例である 。また、当時の加賀藩は深刻な財政難に陥っており、赤門建設を含む婚礼費用の捻出には藩士たちが血の滲むような金策に奔走した記録が残されている 。この歴史的背景は、現在の学問の府としての威厳とは裏腹に、かつての封建社会における格式維持の過酷さを物語っている。
東京大学の変遷と入試頻出データ
| 時代 | 名称 | 背景と重要事項 |
| 1684年 | 天文方 | 後の開成所の遠祖。幕府による科学研究の端緒 |
| 1877年 | 東京大学 | 東京開成学校と東京医学校が合併。4学部体制で発足 |
| 1886年 | 帝国大学 | 帝国大学令公布。国家の需要に応える学術研究機関へ |
| 1897年 | 東京帝国大学 | 京都帝国大学の設立に伴い改称。帝国大学の頂点としての地位 |
| 1947年 | 東京大学 | 戦後の教育改革により改称。1949年に新制大学へ移行 |
京都帝国大学の自由と西園寺公望の理想
1897年(明治30年)、東京に次ぐ第2の帝国大学として京都帝国大学が創設された 。この大学の誕生には、当時の文部大臣であり、後に「最後の元老」として日本を導くことになる西園寺公望の強い意志が反映されている 。
西園寺公望の教育立国論
西園寺は、日清戦争で得た賠償金を活用し、高等教育の拡充を図った。彼は東京帝国大学が官僚養成に偏重していることを危惧し、京都の地には「研究第一主義」と「自由な学風」を求めたのである 。西園寺は「日本は単に強い国ではなく、国際社会から尊敬される国になるべきだ」と語り、そのための人材育成を急務と考えていた 。
京都帝国大学の創立事務局長を務めた中川小十郎は、西園寺の側近であり、後に立命館大学の創設者ともなる人物であった。中川は加島屋時代に、意欲がありながら学ぶ機会を奪われている青年たちの姿を目の当たりにし、西園寺の「能力ある者に教育の機会を与える」という理想を体現しようとした 。この流れは、官立の京都大学と私立の立命館大学という、京都の知を支える両輪を生み出すこととなった。
コスプレ卒業式:自由の学風の現代的変容
現代において京都大学の名物となっている「コスプレ卒業式」は、同校の「自由の学風」を象徴する行事として定着しているが、その歴史を紐解くと、伝統とされるものの意外な新しさが見えてくる 。
1980年代までの卒業式は、依然としてスーツや袴が主流であり、仮装した学生は極一部の例外に過ぎなかった 。しかし、1990年代半ばから、着ぐるみを着た学生やユニークなパフォーマンスを行う学生が目立ち始め、新聞各紙でも「仮装」が恒例行事として報じられるようになった 。大学当局は公式には「伝統衣装または民族衣装」を推奨しているものの、学生の個人的な表現を尊重する姿勢を貫いており、この「容認されたカオス」こそが京都大学の独自性を形成している 。
早稲田と慶應:私学の両雄が歩んだ道
「私学の雄」と称される早稲田大学と慶應義塾大学は、創設者の強烈な個性と、当時の政府に対するスタンスの違いから、対照的な歴史を歩んできた。
慶應義塾:福澤諭吉と「独立自尊」
慶應義塾の始まりは、1858年(安政5年)に福澤諭吉が築地の中津藩邸内に開いた蘭学塾にまで遡る 。塾名の「慶應」は、1868年に組織を近代的な社結社へと改めた際の元号から取られたものである 。
福澤が貫いた「独立自尊」の精神を象徴するエピソードが、1868年5月15日の「上野戦争」の際の話である。新政府軍と彰義隊による激しい戦闘の砲声が聞こえる中、福澤は慶應義塾の教壇に立ち、ウェーランドの経済書の講義を淡々と続けた 。彼は「たとえ国が滅んでも、この学問の灯だけは消してはならない」という信念を持っており、この精神は現在に至るまで慶應義塾の教育の根幹となっている。
早稲田大学:大隈重信と「学問の独立」
早稲田大学は、1882年(明治15年)10月21日に大隈重信によって「東京専門学校」として創設された 。その背景には、大隈が「明治十四年の政変」で政府を追放されたという政治的挫折があった 。政府中枢から離れた大隈は、官僚養成ではない「野に下って国家を批判し、導くことのできる人材」の育成を目指し、政治的圧力から自由な「学問の独立」を掲げたのである 。
大学名の由来は、大隈の別邸が早稲田村にあり、校舎が戸塚村にあったことから、世間が「早稲田の学校」と呼んだことに始まる 。当時の早稲田周辺は、茗荷畑が広がる長閑な田園地帯であり、学生たちはその静寂の中で新たな時代の学問に没頭した 。
創設者・大隈重信の意外な横顔
大隈重信は、政治家としてだけでなく、教育者・文化人としても極めて多才な人物であった。
- 身体と体力: 当時の日本人としては異例の180cm近い長身を誇り、活動的な性格であった 。
- 食と趣味: 園芸をこよなく愛し、温室でバラやラン、さらには当時珍しかったメロンの栽培を手掛けていた。「花を愛する人に悪人はいない」という言葉を残している 。
- 不屈の精神: 襲撃により右脚を失うという悲劇に見舞われながらも、義足を装着して政治の第一線に立ち続けた。彼の葬儀は「国民葬」として日比谷公園で行われ、約30万人もの参列者が集まった 。
- 福澤諭吉との友情: ライバル関係にあると思われがちな福澤諭吉とは、実は自宅を行き来するほどの親友であった。大隈は政府を追われた際、福澤からの激励を心の支えにしたとも言われている 。
早慶戦の歴史的意義
1903年(明治36年)11月21日、早稲田大学野球部が慶應義塾野球部に送った一通の「挑戦状」から、伝統の早慶戦が始まった 。筆者は早稲田主将の橋戸信であったと言われる 。第1回戦は慶應が11対9で勝利したが、創部わずか2年の早稲田が強豪慶應に肉薄したこの試合は、当時の野球熱を一気に高めることとなった 。
1905年には早稲田が日本初の渡米遠征を行い、アメリカから「科学的野球術」を導入した。これを機に早慶戦は定期化され、単なるスポーツの試合を超えた「名誉を賭した決戦」として社会現象化していったのである 。
主要私立大学の成り立ち比較
| 大学名 | 創設年 | 創設者 | 建学の精神 | 歴史的エピソード |
| 慶應義塾大学 | 1858年 | 福澤諭吉 | 独立自尊・実学 | 上野戦争中も講義を継続 |
| 早稲田大学 | 1882年 | 大隈重信 | 学問の独立 | 明治十四年の政変を機に設立 |
| 同志社大学 | 1875年 | 新島襄 | 良心教育 | 函館からの命がけの密出国 |
| 法政大学 | 1880年 | 金丸鉄ほか | 自由と進歩 | ボアソナードの法思想を継承 |
同志社大学と新島襄:太平洋を渡った志
京都の地にキリスト教主義教育の種をまいた新島襄の生涯は、まさに冒険小説のような劇的な展開に満ちている。
ベルリン号と屈辱の航海
1864年、鎖国下にあった日本から、21歳の新島襄は函館の港を密かに出発した。目的はアメリカでキリスト教と自由を学ぶことであった 。彼が乗り込んだ「ベルリン号」の船上で、武士の誇りを捨てて下働きの雑役に甘んじたエピソードは有名である 。
新島は船長の下着の洗濯や掃除を行いながら、日記に「これが武士のすることか」と自嘲気味に記している 。ある時、言葉が通じないことから外国人船員に殴られた新島は、怒りのあまり日本刀を手に取ろうとしたが、「ここで刃傷沙汰を起こしては日本の恥となり、自分の志も潰える」と思い止まったという 。この忍耐が、後に10年間の留学生活と同志社創設へと繋がっていく。
「同志社」という名の重み
1875年(明治8年)、帰国した新島は、京都府議会議長であった山本覚馬の協力を得て「同志社英学校」を開校した 。校名には「志を同じくする者が集まって創る結社」という意味が込められており、わずか8名の生徒と2人の教師からの出発であった 。
新島が目指したのは、単なる知能の育成ではなく、キリスト教の精神に基づく「良心」を持った人間の育成であった。当時の京都は仏教勢力が強く、キリスト教教育に対する風当たりは極めて強かったが、新島の誠実な人柄が徐々に理解を広げ、現在の総合大学としての地位を確立するに至った 。
1918年「大学令」:私立大学の地位確立
日本の大学史において、入試でも頻出する極めて重要な転換点が、1918年(大正7年)の「大学令」の公布である 。それまで、日本の制度における「大学」とは官立の帝国大学のみを指しており、早稲田や慶應などの私立、あるいは一橋や東工大などの官立単科校も、法的には「専門学校」という扱いを受けていた 。
私立大学の正式な認可
第一次世界大戦後の社会的な高等教育需要の高まりと、大正デモクラシーの自由な気風の中で、私立大学に正規の大学としての地位を与える議論が加速した 。1920年(大正9年)、大学令に基づく最初の私立大学として、慶應義塾大学と早稲田大学が認可された 。続いて法政、明治、中央、日本、國學院、同志社なども順次「大学」へと昇格を果たした 。
この改革により、以下のことが可能となった。
- 学位授与権の公認: 帝国大学と同等の「学士」などの学位を授与する権限が私立大学にも認められた 。
- 単科大学の設置: 従来は複数の学部を擁する総合大学が基本であったが、医科大学や商科大学といった単科の大学設置が認められるようになった。これにより、東京商科大学(現・一橋大学)などが誕生した 。
1918年大学令以降の昇格リスト(主な大学)
| 認可年 | 大学名 | 備考 |
| 1920年 | 慶應義塾大学・早稲田大学 | 私立大学の先駆けとして同時認可 |
| 1920年 | 法政・明治・中央・日本・國學院・同志社 | 都市部を中心とした主要私立校の昇格 |
| 1920年 | 東京商科大学 | 官立初の商科大学(現・一橋大学) |
| 1929年 | 東京工業大学 | 工業大学として日本最古の歴史を誇る |
大学の名称と立地にまつわる歴史の断片
大学の名称やキャンパスの成り立ちには、当時の社会情勢や地理的背景が色濃く反映されている。これらは、歴史を愛する人々にとって格好の知的好奇心の対象となる。
お茶の水女子大学の「不在」
文京区大塚にあるお茶の水女子大学だが、地図を見ればわかる通り、JR御茶ノ水駅からは数キロ離れている。この名称の由来は、前身である東京女子高等師範学校が、かつて文京区湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に隣接していたことに由来する 。1923年の関東大震災で校舎が焼失した際、現在地に移転したが、長年親しまれた「お茶の水」の名称を校名に残したのである 。
国立大学の命名法則と「駅弁大学」
国立大学の名称は、原則として所在地を由来とする。
- 都道府県名: 多くの大学が採用。
- 令制国名: 信州大学(長野県)、琉球大学(沖縄県)など 。
- 例外: 日本で唯一、校名に「国立」という語を入れているのは横浜国立大学のみである。これは創設時、私立の横浜大学との混同を避けるための法的措置であった 。
また、戦後の学制改革で各都道府県に1校以上の国立大学が設置された際、評論家の大宅壮一が「急行列車が止まる駅には必ず駅弁と大学がある」と揶揄し、これらを「駅弁大学」と呼んだ 。これは当時の急速な高等教育普及を象徴する流行語であった。
北海道大学とクラーク博士の情熱
1876年に創立された「札幌農学校」を前身とする北海道大学は、日本の国立大学の中でも有数の古い歴史を持つ 。初代教頭ウィリアム・スミス・クラーク博士が残した「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」という言葉はあまりにも有名だが、彼が札幌に滞在したのはわずか8ヶ月であった事実は、その影響力の大きさを際立たせている。
入試に役立つ!近代教育史の重要キーワード
大学入試の日本史や政治経済の科目では、近代教育制度の変遷がしばしば問われる。これまでの歴史的エピソードを以下の視点で整理しておくことは、受験生にとって極めて有用である。
- 学制(1872年): 「必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という理念。フランスの学区制を模範としたが、負担の重さから反対運動も起きた 。
- 教育令(1879年): 学制の反省から、地方の自由度を認めた制度。アメリカ風の自由主義を採り入れた 。
- 帝国大学令(1886年): 初代文部大臣・森有礼による改革。国家を支える指導者養成を目的とした。「国家ノ須要」に応えることが大学の義務とされた 。
- 大学令(1918年): 原敬内閣による改革。私立大学、単科大学の公認。高等教育の門戸を広く開放し、日本の近代化を加速させた 。
結びに代えて:知の歴史が描く未来
日本の有名大学が歩んできた道は、決して平坦なものではなかった。幕府の学問所が瓦解し、西洋の知を吸収する過程での激しい摩擦。政治に翻弄されながらも、真理を究めようとした創設者たちの執念。そして、戦火を乗り越えて守り抜かれたキャンパスの伝統。
私たちが今日、何気なく耳にする「早慶戦」の歓声や、赤門の荘厳な姿、あるいは自由を謳歌する卒業式のパフォーマンスの背景には、百数十年にわたる重厚な歴史の堆積がある。大学とは、単に就職のための通過点ではなく、人類が積み上げてきた知を継承し、次の時代へと繋ぐための「生きた記憶」の集積地である。
これらの歴史を知ることは、私たちが生きる現代日本の成り立ちを知ることであり、それはまた、これからの日本を如何なる「知」で満たしていくべきかを考えるための、重要な羅針盤となるはずである。


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