先週の豊臣兄弟のラストシーンで、豊臣兄弟は信長に播磨攻めを命令されていました。大河ドラマを見る前に、その梁間はどのような場所かを予習しておきましょう。
兵庫県南西部に位置する「播磨(はりま)」。姫路城がある場所、と言えばピンとくる方も多いですよね。
実はこの播磨、日本の歴史が大きく動くターニングポイントに何度も登場する「激動の舞台」なんです。さらに、大河ドラマの題材としても注目を集める豊臣兄弟(秀吉・秀長)にとっても、天下取りへの重要な足がかりとなった場所でした。
今回は、歴史初心者の方にもわかりやすく、播磨の歴史を「秀吉が来る前」「豊臣兄弟の時代」「それ以降」の3つのステップに分けてご紹介します!
1. 秀吉の播磨攻めのまえの播磨
1-1. 播磨について
播磨国(はりまのくに)は、現在の兵庫県南西部にあたる旧国名です。瀬戸内海に面し、気候も良くて食べ物も豊か。さらに、京都や大阪(畿内)と、西日本を結ぶ交通のメインストリートでした。
そのため、時の権力者たちにとって「ここを制する者が西日本を制する」と言っても過言ではない、絶対に手に入れたい最重要エリアだったのです。
1-2. 平安時代から南北朝の動乱まで
律令制度の五畿七道では、畿内(平安京・平城京)と大宰府(福岡)を結ぶ重要な山陽道に属し、畿内の摂津(大阪・神戸)に接している。
平安時代末期、播磨は源平合戦の舞台となりました。義経が活躍した一ノ谷の戦いは、摂津と播磨の国境で行われました。
その後、鎌倉時代にじわじわと力をつけてきたのが、地元の武士である「赤松(あかまつ)氏」です。鎌倉時代の終わり、後醍醐天皇が幕府を倒すために立ち上がると、当主の赤松円心(えんしん)はいち早く味方になり、足利尊氏らとともに大活躍しました。さらにその後の動乱でも、円心は尊氏を全力でサポート。敵の大軍を自分の城で長期間足止めするという大ファインプレーを見せます。これらの大きな功績が認められ、赤松氏は室町幕府から正式に播磨の「守護(県知事のようなリーダー)」に任命され、播磨のトップへと上り詰めたのです。(314文字)
1-3. 播磨の赤松統治について
播磨のリーダーとなった赤松氏は、室町幕府のトップ4(四職)に入るほどの超エリート一族へと成長します。
播磨を中心に周辺の地域も治め、交通の要所をしっかり握ったことで、経済的にも大豊作。京都の雅な文化も積極的に取り入れ、当時の播磨は、ただの地方ではなく「ハイレベルな武家文化が栄える最先端の街」として繁栄しました。
1-4. 嘉吉の変〜秀吉の播磨攻めの直前まで
しかし、赤松氏の栄華は突然のピンチを迎えます。1441年、当主の赤松満祐(みつすけ)が、自分を冷遇する当時の将軍をなんと暗殺してしまったのです(嘉吉の変)。これにより幕府の怒りを買った赤松氏は討伐され、一度滅亡してしまいます。
この後に、播磨を統治したのが、山名宗全です。山名家は、赤松氏と並ぶトップ4(四職)の家系です。15世後半の応仁の乱では、山名宗全は西軍のトップを務める。赤松家は、お家再興をかけて東軍にで参戦。播磨は、山名VS赤松で激しい戦闘が行われた。その中で活躍したのが、赤松家の重臣であった浦上則宗と別所則治である。
応仁の乱などで、赤松氏が長く京都を離れたたことで、地元で留守を守った家臣(浦上家、別所家)や地元の有力者(小寺家)が台頭。播磨はバラバラな状態になっていた。
2. 秀吉の播磨統治
そんなバラバラの播磨にやってきたのが、織田信長の命令を受けた羽柴(豊臣)秀吉です。ここから有名な播磨攻めが始まります。
この過酷な播磨攻めを、秀吉の右腕として支えたのが、弟の豊臣秀長(ひでなが)です。大河ドラマでも最高のバディとして描かれるこの豊臣兄弟は、巧みな連携プレーで播磨を攻略していきます。
当時の播磨の領主たちは、究極の選択を迫られていました。西の毛利輝元につくか東の織田信長につくかです。豊臣兄弟の最初の仕事は、チーム作りになります。
いち早く秀吉の味方になった天才軍師・黒田官兵衛から「姫路城」をプレゼントされた豊臣兄弟は、そこを大改造して拠点にしました。そして、敵対する勢力を兵糧攻め(三木の干殺し)などの厳しい戦術で打ち破り、見事に播磨を平定します。
ただ、播磨平定も苦難が続きます。1つは、摂津の国の荒木村重の謀反です。摂津は神戸と大阪西部の地域です。ここで謀反が発生したことです。豊臣兄弟は、西の毛利と東の荒木で包囲されます。また、別所氏らの反乱もこの時期に起こります。
秀吉は播磨を自分の領地にすると、古い勢力をリセットし、自分の信頼できる家臣たちを配置しました。播磨は、豊臣兄弟にとって「天下統一へのジャンプ台」となった、まさに大出世の街なのです。
そして、本能寺の変が起こると、
3. それ以後の播磨
3-1. 江戸時代の姫路城

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秀吉が亡くなり、徳川家康が天下を取った関ヶ原の戦い(1600年)の後。家康は、自分の娘婿である池田輝政(いけだてるまさ)を播磨の新しいリーダーに命じます。
輝政のミッションは「西日本にいる豊臣ファン(豊臣恩顧の大名)たちが反乱を起こさないように監視すること」でした。そのために彼が9年もの歳月をかけて築き上げたのが、現在私たちが見ている白くて美しく、そして巨大な「姫路城」です。その後も、徳川家が最も信頼する大名たちが代々城主を務め、姫路は江戸幕府の重要な守りの要となりました。
3-2. 明治以降の姫路
明治時代になると、お城の主はいなくなり、一時は姫路県(後に兵庫県に統合)が誕生します。
近代化が進む中で、姫路には陸軍の基地が置かれ、軍事都市として発展しました。そのため第二次世界大戦では激しい空襲(姫路大空襲)に遭い、街は焼け野原になってしまいます。しかし、奇跡的に姫路城の天守閣は焼け残り、その美しい姿は戦後の人々に大きな希望を与えました。
現在、姫路城は日本初の世界文化遺産に登録され、世界中から観光客が訪れる街として賑わい続けています。
4. まとめ
一地方でありながら、赤松氏の栄枯盛衰の舞台となり、豊臣兄弟が天下取りへの足がかりにした播磨攻めの舞台。そして徳川の最重要拠点へ……。
播磨には、日本の歴史を動かした数々のドラマが詰まっています。
大河ドラマで豊臣兄弟の活躍を見た後は、ぜひ彼らが駆け抜けた播磨の地・姫路城を訪れて、この激動の歴史を肌で感じてみてくださいね!

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