西アジアの地理
西アジアは、気温が高く乾燥している地域が多い。そのため、大部分が砂漠・草原・岩山である。農業は沿海部や河川流域で小麦やオリーブの生産が行われた。
西アジアの中心は主に3つに分かれている。イラクとシリア、エジプトである。イラクは、当時メソポタミアと呼ばれていた。多くの民族が豊かな富を求めて侵入した。このエリアの歴史では多くの民族が登場する。一方で、エジプトは、砂漠と海に囲まれていたため、エジプト人が長期にわたって政権を維持することができた。その中間にあったシリアは交易都市として栄えた。
西アジアでは、雨季と乾季を利用して灌漑農業を行った。そのため、雨季と乾季がわかる神官が政治を司った。また、大規模な治水灌漑工事を行うため強いリーダーを必要とした。早くから宗教の権威を使って統治する強力な神権政治が行われた。
イラク(メソポタミア)
メソポタミア文明と都市国家
まずは、メソポタミア文明が形成されたイラクから見ていきます。
紀元前3500年ごろ、イラン南部で人口が急増。神殿を中心した大村落ができ始める。文字を使用し、銅器や青銅器などの金属器を使用していた。
紀元前3000年ごろ、神官、戦士など農民以外の職業も増加してきた。これにより、村落は都市になった。
紀元前2700年ごろ、シュメール人(民族不明)の都市国家が成立。階級社会が成立した。ウルやウルクはその一つであった。都市国家間も貧富の差が発生した。裕福な都市は、壮大な神殿や王墓、宮殿が建設され、豪華なシュメール文化が形成された。
紀元前24世紀、シュメール人はセム語系のアッカド人に征服された。
メソポタミアの統一
ひきつづき、イラクの歴史を見ていきます。
紀元前24世紀、アッカド人(セム語系)がイラクを征服。
紀元前22世紀半ば、シュメール人が独立を回復。ウル第3王朝が成立。
紀元前18世紀ごろ、同じセム語系のアムル人がバビロン第1王朝を建国した。ハンムラビ王は、ハンムラビ法典を発布した。
紀元前17世紀半ば、ヒッタイト人(インド=ヨーロッパ語族)がトルコ(アナトリア半島)に登場。ヒッタイトは、鉄製武具を使用していたため、当時としてかなりの軍事力を思った。
紀元前16世紀末、ヒッタイト人はバビロン第一王朝を滅ぼした。ヒッタイト人はシリアをめぐりエジプトとも争った。
紀元前15世紀から紀元前14世紀にかけて、カッシート(メソポタミア南部)やミタンニ(メソポタミア北部)などの国がいくつかの領域国家が成立した。
メソポタミアの文化
多神教を信仰。民族ごとに最高神が変わった。シッグラド(聖塔)が建設された。
楔形文字を使用。シュメール人の時代から作られた。
ギルガメッシュ叙述詩 古代バビロニアの英雄を主人公にした世界最古の物語。
六十進法 シュメール人の時代から使われていた。時間や角度として現在も残っている。
月をベースにした太陰暦を使用。のちに、うるう月を導入した太陽太陰暦が誕生した。
エジプト
古王国
紀元前3000年ごろ、統一国家が完成。イラクより早い。王は、ファラオと呼ばれ、生ける神として神権政治が行われた。都は、ナイル川下流域のメンフィスに置かれた。王の下には、神官・役人が置かれた。彼らは地主階級となった。その下に、実際に農作業を行う農民がいた。農民には、税金と無償労働が課された。
紀元前26世紀ごろ、クフ王がピラミッドを作る。
中王国
紀元前22世紀、都をテーベ(ナイル川の上流)に遷都。ここから中王国時代に入る。
紀元前18世紀、異民族のヒクソスが侵入。
新王国
紀元前16世紀、トトメス3世が異民族のヒクソスを撃退。ここから新王国時代に入る。トトメス3世は、シリアをめぐりヒッタイト人(トルコ)と争う。
紀元前14世紀、アメンホテプ4世がアマルナ(テーベの北)に都を遷す。アトン神の一神教を信仰した。古い伝統を捨てたアマルナ美術が生み出された。
では、なぜアメンホテブ4世は、これまでの多神教を捨てて一神教を信仰したのであろうか。これは、神官との対立にあった。
この時代にユダヤ人の一部がエジプトで生活。出エジプト記の舞台になった。ユダヤ教の基礎はアトン神にあるのかもしれない。
ツタンカーメンは、アメンホテプ4世を引き継いだ。若くしてファラオになったため、旧来の多神教信仰に戻った。
紀元前13世紀、ラメセス4世が再びシリアへ進出。
文化
太陽神ラーを最高神とする多神教
死後の世界があると信じ、ミイラをつくり、「死者の書」を残した。死者の谷にあるツタンカーメンのものが有名。
文字は、碑文などに書かれた神聖文字(ヒエログリフ)と紙(パピルス)にかかれた民用文字(デモティック)がある。18世紀末、ナポレオンが発見したロゼッタストンで研究がかなり進んだ。
幾何学の研究が進んでおり、太陽の動きに基づいた太陽暦を使用した。この太陽暦は、ローマで利用されるユリウス暦の元になった。
シリア(東地中海)
カナーン人と「海の民」
紀元前15世紀、セム語系のカナーン人が交易で活躍。
紀元前13世紀ごろ、「海の民」が活躍。ヒッタイト(トルコ)とエジプトが撤退した。これにより、セム語系の国が乱立する。
陸上交易のアラム人
紀元前12世紀、ダマスクスを中心に陸上交易で栄える。アラム文字を使用。楔形文字からこちらが主流になり、アラビア文字の原型になる。
海上交易のフェニキア人
同じ頃、フェニキア人はシドン・ティルスなどの都市国家を形成。ギリシャのクレタ・ミケーネ文明が衰退すると代わりに地中海へ進出した。各地に植民都市を形成した。
カナーン人の表音文字をベースに線状フェニキア文字を作った。これをベースに、ギリシャ人はキリル文字を、ラテン人(ローマ)はアルファベットを作った。
ユダヤ教とヘブライ人
紀元前15世紀ごろ、ヘブライ人がパレスチナに定住
その後、エジプトの支配下になる。ここで一神教のアトン神信仰を体験。
紀元前13世紀ごろ、指導者モーセの元パレスチナに戻る。(旧約聖書の出エジプト)。当時のエジプトは「海の民」によって混乱していた。
紀元前10世紀、ダヴィデ王とソロモン王の全盛期
紀元前10世紀末、ソロモン王の死後、ヘブライ王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。
紀元前8世紀後半、イスラエル王国、アッシリアに滅ぼされる。
紀元前6世紀前半、ユダ王国、新バビロニアの征服を受ける(バビロンの捕囚)
紀元前6世紀末、新バビロニアがアケメネス朝ペルシャによってユダ王国が解放される。この経験がもとにユダヤ教が成立する。
ユダヤ教の特徴は、次の4つである。
- 一神教 ヤハウェ以外の神を認めない。(アトン神の影響?)
- メシア思想 救世主(メシア)によって救われる。
- 律法主義 代わりに信者は、神に示された律法を守らなければならない。
- 選民思想 神によって救われるのは神に選ばれたユダヤ人だけである。
選民思想以外が、キリスト教やイスラム教へ引き継がれる。経典として『旧約聖書』が作られた。ここにはギルガメッシュ叙述詩の内容も含まれた。
古代オリエントの統一
それまでの復習
イラクでは、紀元前15世紀から14世紀にかけて、ミタンニやカッシートなど国が並立した。
シリアでは、紀元前10世紀には、フェニキア・アラム・イスラエル王国・ユダ王国が存在した。
エジプトでは、紀元前13世紀に「海の民」の侵入し、シリアから撤退した。
アッシリア王国
アッシリア王国は、ミタンニ王国から独立したメソポタミア北部(イラク)の国である。
紀元前8世紀、ヒッタイト人(トルコ)が培った鉄の技術を得て高い軍事力を得た。
紀元前7世紀前半、鉄製武具を利用して全オリエントを征服した。政治・経済・宗教を自ら管理し、地方に州に分けて各地に総督を置いた。この時に駅伝制も導入された。しかし、重税と圧政は服属民の反感を買った。
紀元前7世紀末、アッシリア王国は分裂した。
4国に分裂
紀元前7世紀末にアッシリア王国が滅亡した。その後4つの国分かれた。
エジプトは、エジプト新王国が復活した。
トルコは、リディアが成立。世界初の金属貨幣を作った。
シリアとイラクは、新バビロニアが成立。バビロンの捕囚を行った。
そして、今まで国がなかったイランにメディアが成立。
アケメネス朝イラン
紀元前6世紀半ば、イランのメディアからアケメネス朝が独立。
メディア王国とリディア王国(トルコ)を征服。
紀元前6世紀前半、新バビロニアを征服。バビロンの捕囚を終わらせる。
紀元前5世紀前半、フェニキア人の防衛のためにギリシャ人と戦争。しかし敗れる。(ペルシャ戦争)
紀元前4世紀後半、ギリシャのアレキサンダー大王に征服され、アケメネス朝ペルシャは滅亡する。
アケメネス朝ペルシャは、西がエーゲ海沿岸(ギリシャ)から東はインダス川(インド)まで広がる大帝国になった。
地方には知事(サトラップ)を派遣。知事を監視する「王の目」「王の耳」を巡回させ、中央集権化を進めた。
経済では、リディアの技術を使って金貨・銀貨を発行。フェニキア人を保護して地中海交易を進めた。陸上交通では都のスサを中心に「王の道」を整備し、駅伝制を整備した。
このころに、ゾロアスター教が成立。最期の審判の話が登場。ユダヤ教やキリスト教に影響を与えた。
イラン
前史
この節では、ギリシャ・ローマ時代以降のイランの歴史を見ていきます。
紀元前4世紀後半にアケメネス朝が滅亡すると、ギリシャの支配下に入っていた。
パルティア
紀元前3世紀半ば、2つの国が独立した。中央アジアにはギリシャ系のバクトリア、イランにはイラン系遊牧民族のパルティアが独立した。
紀元前2世紀半ば、イラク(メソポタミア)を併合。都をクテンシフォンに置いた。ここは後のバグダードの近くである。
紀元前1世紀になると、共和制ローマの侵攻を受けるようになる。
パルティアは、東西交易を独占することで栄えた。
ササン朝
3世紀に入ると、ササン朝がパルティアを滅ぼした。ササン朝は農耕民族である。
3世紀半ば、シャープール1世の時代。シリアに侵入。軍人皇帝時代のローマ皇帝を捕虜にした。東方ではインドのインダス川流域まで統治した。
5世紀後半、中央アジアの騎馬民族エフタルの侵入を受ける。
6世紀、ホスロー1世の時代。ビザンツ帝国のユスティアヌス帝と不戦協定を結び、さらにトルコ系の中国北方騎馬民族と結びエフタルを滅ぼした。
7世紀、イスラム勢力に征服されて滅んだ。
文化
初期のパルティアはヘレニズム文化の影響を強く受けた。
紀元前1世紀になると、古来のイランの文化を重視するようになった。ギリシャの神々とイランの神々を祭るようになった。
2世紀のササン朝の時代に入ると、ササン朝はゾロアスター教を国教にした。ゾロアスター教の経典『アヴェスター』が変遷された。
3世紀、マニ教が成立した。
イランでは、鉄器・ガラス器・毛織物(ペルシャ絨毯)・西邑陶器などがつくられ、奈良時代の日本まで運ばれた。