古代① ヨーロッパと西アジアの古代

概要

 ここでは、西アジアとヨーロッパの古代の歴史を見ていく。四大文明のうちのエジプト文明とメソポタミア文明である。ここから巨大帝国のローマ帝国の成立と滅亡を見ていく。

 この地域の大部分は、ローマ帝国の支配下に入った。そのため、同じセクションで扱うことになった。

 具体的な流れは以下のとおりである。

  • 四大文明(メソポタミア文明とエジプト文明)の成立
  • 都市国家の形成
  • オリエントの各地域で国家が形成
  • オリエント(西アジア)の統一王朝
  • ギリシャ(アレキサンダー大王)がギリシャとオリエント(西アジア)を征服
  • ローマ帝国がヨーロッパ、ギリシャとオリエント(西アジア)の西半分を征服。

西アジア(オリエント)

 まず、西アジア中心部3つと周辺部2つの地域を押させる必要がある。

 中心部は、メソポタミア(現在のイラク)、東地中海(現在のシリアやイスラエル)とエジプトである。周辺部は、アナトリア(現在のトルコ)とイランである。アナトリアはギリシャ(ヨーロッパ)と接している。イランは、中央アジアやインドなど東方世界の玄関口であった。

 最初にこの5つの地域を統一したのは、アッシリア帝国であった。重税と圧政で崩壊。オリエントは再び分裂した。次に統一したのは、アケメネス朝イランである。

 このアケメネス朝は、ギリシャへ侵攻(ペルシャ戦争)するも失敗。その後、ギリシャ(アレキサンダー大王)に征服される。

ギリシャとアレキサンダー大王

 ギリシャは、バルカン半島南部の国である。アナトリア(トルコ)に接している。

 ギリシャは穀物があまりとれないため、交易によって栄えた。地中海沿岸や黒海沿岸に拠点(植民市)を形成していた。また、同じく海上交易で栄えたフェニキア人との争いが絶えなかった。

 大きな河川がないため、大規模な土木工事を行う必要がなかったため、都市国家(ポリス)が長く存続した。

 アケメネス朝イランが侵攻(ペルシア戦争)。この戦いには多くの市民が参加した。そのため、主要なポリスであるアテネでは直接民主制が導入された。一方で、有力な都市国家を中心とした同盟が結ばれた。

 その後、有力な都市国家(アテネ、スパルタなど)が主導権争いで、内乱状態になった。それを統一したのが北方のマケドニアであった。

 マケドニアのアレキサンダー大王は、アケメネス朝イランを征服。ギリシャと西アジアを征服した。

 アレキサンダー大王の死後、マケドニアは分裂。イランは独自国家(パルティア、ササン朝)を形成した。しかし、それ以外の地域はローマ帝国の支配下に入った。

ヨーロッパとローマ帝国

 最後は、ローマの歴史を見ていきます。ローマも、穀物があまりとれる地域ではなかった。しかし、ローマ帝国は戦争によって穀倉地帯とそれを耕す奴隷を獲得。これによって栄えた。

 ローマは、イタリア半島を統一すると、穀倉地帯のシチリア島をめぐり北アフリカのカルタゴと戦争になった(ポエニ戦争)。その過程で、カルタゴに味方したギリシャ(マケドニア)を征服した。

 当時のローマは、共和制をとっていた。しかし、戦争や反乱によって強いリーダーを必要とするようになった。そこに登場したのがカエサルである。当時のローマは、フランス(ガリア)、エジプト、イラン(ササン朝)へ侵攻していった。当時のエジプトを統治していたのが三大美女の一人クレオパトラであった。

 カエサルの暗殺はあったものの、ローマは共和政から皇帝を中心とした帝政へ移行した。その後五賢帝の全盛期を迎える。

 しかし、その後有力者が独自に皇帝を建てる軍人皇帝時代に入った。その頃になると、戦争がほとんどなく奴隷の調達が困難になった。そのため、奴隷の地位が向上した。それが農奴である。

 また、この時代にキリスト教が誕生した。キリスト教徒は最初迫害されていた。しかし、キリスト教を信仰がみとめられ、末期には、キリスト教を強制し、キリスト教の支援を仰ぐようになった。

 ローマ帝国は、東西に分裂。西ローマ帝国(西欧)は滅亡。ゲルマン人国家が乱立した。しかし、東ローマ帝国(東欧)はビザンツ帝国として15世紀まで存続した。